Bi-Bo-6

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日常のあれこれ

朝井リョウが面白い

朝井リョウって、自分と同い年なんですよね。

風と共にゆとりぬ

風と共にゆとりぬ

殆ど小説を読まない性格なので彼の作品に触れたことはありませんが、上記エッセイの一節を読んで「なんておもしろいやつなんだ!」と思ってややはまり。表現としても、文法や言い回しがきれいでとても気に入った。


下記は2年も前のインタビューですが、やはり言語化がうまいと思う。見習いたい。
下線部は個人的に「いいな」と思ったところ。

例えば、私は高級なホテルのホテルマンから丁寧に接していただくことが苦手なんです。ホテルマンが良心的な対応をしてくれるのは、たまたまその日にシフトが入っていて、たまたま客である私に出会ったからであって。つまり、階級制度もないこの国でなぜそこまで優しくしてくれるのか、と複雑な気持ちになってしまう。なので、その人がホテルマンではない時の姿を想像するんです。というのも、私はやっぱり、一対一、人間対人間、として人と接したいからなんですよね。

時間に余裕があると何もやらなくなるのに、切羽詰まってくると動き出す。それと同じように、おびやかされることで初めて働く思考があるんですよね。学生の頃にバレーボールをやっていたのですが、コーチから絶対にレシーブできない場所にボールを投げられたりするんです。心の中では「取れるわけないじゃん!」と思いながら、それでも飛び込んでいく。それが気持ち良かったりするんですよね。そういう感覚が子供の頃からあって、大人になった今でも続いている気がします。

書くという行為は、どこかで自分のことを俯瞰的に見ている部分があると思うんです。俯瞰でいると何をやっても100%夢中になることがないというか、99.9%は夢中になるけれど0.1%は冷静に何かを書くために俯瞰している自分が存在している。ですから、何に対しても起承転結といった具合に、物事の終わりを見据えて書く自分というのも自覚しているのだと思います。

小説の仕事を始めてずっと感じているのは、人は数年単位で変わっていくということ。単行本を発表すると約3年後に文庫化されるのですが、文庫用にあらためて原稿を修正していると、今とはぜんぜん違うことを考えていたんだなと思うことばかりです。そういう意味では、少なくとも3年に1度は必ず変化している自分を自覚することができる。

あらためて「朝井リョウは何者か?」と聞かれたら「あらゆるものに対して嫌われにいく者」かもしれません。

喜怒哀楽でいえば"怒"の感情に興味があります。怒るということは、その人の感情がキャパオーバーになった状態を指すと思っているんです。つまり、自分の器から感情が溢れてしまったということで、その時に垣間見えるその人の器の形を見たいという欲求がある。
(中略)
人を怒らすという行為は失うものが多いですが、でも止められないんです(笑)。私自身も、自分の感情を乱されまくった小説に何度も出会っていますが、そういう作品や感覚って忘れることができない。小説というのは、そんな風に人の感情に触れられるのが魅力でもある。時には大切な人やファンの方を失うかもしれませんが、きっと止められないと思う。やっぱり「おびやかしたい」「おびやかされたい」ということを小説で表現することが、私自身の役割でもあるのかなと思っています。

www.recruit.jp


特に、「喜怒哀楽でいえば〜」のくだりにはかなり共感する部分がある。怒るって、とにかく「私いまキャパオーバーです」って露呈する行為だよねということは学生の頃から思っていた。それはなんとなく、普段は温厚な親がたまに怒ったりするときに「こういうことを言うと(すると)怒るのか」、という部分から学んだ肌感覚だと思う。

Spotifyの好きなプレイリスト(2017年7月)

スタバ名義のプレイリストたち

さすがスタバと言いますか、どのプレイリストも癖がなく上質。個人的には、『80's Party』『Starbucks Jazz』あたりを聴いてますが、お好みのものをどうぞ。

近年、特に日本では「スタバはプレゼンスが下がった」*1と言われることが増えたけれど、私は(少なくともスタバのブランディング力をグローバルから見る限りでは)そこまでは堕ちていないと思います。というのも、定番の「ご当地タンブラー」*2やチェーンでありながら画一的ではない空間づくり、このSpotifyでのチャンネルなど、「文化」に食い込むような資本力とストーリー性は他のコーヒースタンドチェーンが持っていないものだから。

国内でも福岡の大宰府や東京の上野公園などのコンセプトストアは色褪せないし、何よりも上海豫園のど真ん中に鎮座する店舗など本当に絶好のカフェロケーションを取っていくその姿勢と資本には圧倒されるしかない。

少し逸れたけれどまあスタバって"そういう意味で"やっぱりセンスいいんですよ、というお話でした。

 

Deep Focus by Spotify

ディープ・フォーカス。一人で黙々と仕事や勉強をこなすための「超集中用」プレイリスト。#Spotifyはじめました

たしかSpotify登録して一番最初にフォローしたプレイリスト。常々「もっと評価されるべき」だと思っています。曲調でいうと、アンビエントかな? それと、オルタナ系が好きな人にも嵌まるのではないでしょうか。とにかくおすすめ。

こういう風に「コンセプト」を切り口に新しい音楽と出会える体験も衝撃でした。

 

Jazz @ Work by Digster France

 こちらは「Digster.fm」というプレイリスト配信サービス作成。Workとあるように、仕事や読書のBGMにも使えると思います。

BS1スペシャル「欲望の資本主義2017 ルールが変わる時」

様々な角度から現代の資本主義が向かう先を考察していく構成は意欲的で面白い。
番組中で気になった言葉(意見)は下記の2点。

「ある物の価値が宿るところは、投じられた労働や物質ではない。価値は『欲望』と『満足感』が交わるところに宿る。」
共産主義だった国から来た身としては、共産主義政権を捨てて資本主義をインストールしていたころ、民主主義国家での資本主義は何よりも自由のためのものと信じていた。」
 ――トマス・セドラチェク(『善と悪の経済学』著者)

GDPは経済力を測るにはいい指標とは言えない。環境汚染、資源乱用を考慮に入れていないし、冨の分配も社会の持続性も考慮されていない。問題だらけだ。経済における成長の本質をこの先変えていくべきだと強く思っている。」
 ――ジョセフ・スティグリッツ(2001年ノーベル経済学賞

「テクノロジーは 経済を活性化するか、雇用を奪うだけか。そういうことは考えてない。そういう心配をするのは僕たちの仕事じゃない。僕たちは5億ドルを運用している。そのお金は 僕たちのお金ではなくて、出資するパートナーたちのものだ。彼らは自らの資本を僕らの透視に委ねてくれている。」
 ――スコット・スタンフォード(SHERPA CAPITAL CEO)


上記の中では一番最初に挙げたトマス・セドラチェクの言葉が最も印象的だった。
例えば私にとっては、規模は小さいながらも自分が旗を振って開発した商品に対しては「自分が割いた労力やコスト」こそが価値であり、それが収益によって還元されてしかるべきという発想に陥ってしまっていたけれど、これは全くもって馬鹿げた視点であるということに気がつく。もっと明白にユーザーの「欲望と満足感」を追求し、わかりやすく形にしていくことに注力していくべきなのかもしれない。逆に言うとそこまで昇華されない限り、価値はない(自己満足に帰結する)ということだ。

ジョセフ・スティグリッツはまあ、教科書通りな発言ばかりだったけど、これはこれで必要な立場だと思うし、「新しい指標が必要」という部分には同意する。そういう意味でも最も(経済)学者然とする安定した視座を感じた。

スコット・スタンフォードは、映画『ソーシャル・ネットワーク』の中でのマーク・ザッカーバーグのように多弁。「俺たちみたいなクレイジーなやつらはさ〜」という感じで、私達が大学のキャンパスに置き忘れてきた「躁状態」の塊みたいなやつだ。言ってることは面白い。

「マグナム・ファースト日本展」 - ヒルサイドフォーラム

MAGNUM’S FIRST


 学生時代、唐突にキャパへ憧れを抱きはじめた時期があった。と言っても、特に写真を撮り始めたりしたわけでもないのだけれど……なんとなく、「人の日常を切り取り、後世に残す」それが偉業というか、猛烈に「かっこいい」生業のように感じられたのだ。当時は下記のエッセイを私も読んだのだけれど、こう、カメラマンという立場からある種第三者的に戦争(WWⅡ)へと巻き込まれていく過程の描写にも人間味が溢れており、彼の人柄が垣間見えたことにときめいたものである。

ちょっとピンぼけ (文春文庫)

ちょっとピンぼけ (文春文庫)


 さて、話を「マグナム・ファースト展」に戻すと、これは言わずもがな「マグナム・フォト」という写真家集団(正確に言えば版権などをきちんと管理・保護するために設立された団体)の個展なのだけれど、それも「マグナム」を結成して一番最初に企画された展覧会の復刻展示である、ということ。元々、1955年にオーストリア5都市を巡回した企画展というものがあり、その後、作品群が消失してしまったことで、長らく幻の企画展として扱われていた。ところが2006年になるとインスブルックオーストリア)のフランス文化会館の地下で全作品が発見される。2008年より世界の様々な都市で巡回を行い、2016年晴れて日本での展覧会が開催されたというわけだ。

 以下、本展の感想。

 1955年といえば、第二次世界大戦が終了して10年。そんな時代の彼らの生活様式がぎゅっと詰まったこの展覧会は、私の心に爽やかで新鮮な風を吹き込んでくれる作品ばかりだった。ハンガリーオーストリア、インド、イギリス、そういった国々での人々の生活を切り取った1枚1枚に映る市民の表情は、どれも優しかった。特に町中の噴水や銅像のそばで自由に走り回る子どもたちの様子(きっと戦後に生まれた子どもたちだ)を写した写真を見ると、「あぁよかった」と思わずこちらが安堵してしまうような感覚さえある。
 個人的に良かったのは、アンリ・カルティエブレッソンが写したガンディーの肖像写真群。断食を終えたばかりのガンディーが、ビルラー邸で暗殺され、そしてガンジス川のほとりで荼毘に付されるまでの様子が収められた写真は10枚ほど。特に、川のそばで火葬されるガンディーを哀悼しようと駆けつけたインド人の群れの迫力に、生と死の不思議な対比を感じた。
 他に興味深かったの50年代のイギリス、ロンドン。女性達は皆タイトなロングスカートにジャケットのスタイル、そして毛皮を首から肩に掛けている。なんだかスカーフのような要領で。恐らくミンク(イタチ科)の毛皮だろう。こういうの、淑女の嗜みだったんだろうけど、イギリス人みんな同じ格好…こりゃあ英仏も仲悪くなるわという妙に納得感のあるファッショントレンドであった。

 そんなわけで、人々の生活様式が垣間見える写真や絵画が好きな私にとっては大変満足な内容だった(図録もお買い上げ)。
 落ち着いた展示室で見る展覧会は久々で、こう、主催の挨拶文を読んだ時に身体にスイッチが入る感じや素敵な作品にであったときののめり込む感覚、どれも懐かしかったし、「懐かしいって感じてるようじゃだめだな」と思える、いい刺激となったことに感謝したい。