Bi-Bo-6

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日常のあれこれ

精神史的考察 - 藤田省三

精神史的考察 (平凡社ライブラリー)

精神史的考察 (平凡社ライブラリー)

かくて隠れん坊とは、急激な孤独の訪れ・一種の沙漠体験・社会の突然変異と凝縮された急転的時間の衝撃、といった一連の深刻な体験を、はしゃぎ廻っている陽気な活動の底でぼんやりとしかし確実に感じ取れるように出来ている遊戯なのである。
この遊戯的経験の芯に写っているものは「迷い子の経験」なのであり、自分独りだけが隔離された孤独の経験なのであり、社会から追放された流刑の経験なのである。
遊戯としての「隠れん坊」は聞き覚えた「おとぎ話」の寸劇的翻案なのであり、身体の行為で集団的に再話した「おとぎ話」なのであり、遊戯の形で演じられた「おとぎ話」の実践版なのであった。
話を聴く際に受け取る抑揚や韻律の知覚、読む場合に自生的に起こる知的想像、無言演劇への翻案を通して滲み込む身体感官的な感得、それらが一体となって統合的に主題が消化されるのである。
ほとんどのおとぎ話の主題は、幼少の者が様々な形での比喩的な死を経験した後に、更めて再生することによって、以前とは質的に違った新しい社会的形姿を獲得し、その象徴として結婚の成立や王位の獲得などが物語れるところにある。〜一人ぼっちの旅や生死のかかる災厄などの一連な深刻な体験は、その比喩的な死を象徴し、その再生復活の過程に課せられる試煉を表現するものなのであった。この主題の筋道には、紛う方なく、通過儀礼としての成年式の意味する世界が、色々に変形されながら骨格において複写されている。
その構造的塊りから神話の持つ聖なる性格が抜け落ち、英雄物語が持つ悲劇的葛藤が脱落し、「よばい」をめぐる笑劇の喜劇的爆笑性もまた洗い去られた時、そこに恐らくはおとぎ話の世界が生まれたであろう。
儀式が聖性の実在を強調し、酒神祭の爆笑が祭式世界の日常外的な実在を別の門口から力を込めて表現しているのに対し、おとぎ話の世界は実在を強調するための手立てを一切含むことがない。
有識故実