Bi-Bo-6

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日常のあれこれ

intoxicate #92 2011 June

冨田勲

「サラウンドは僕にとっては特別なことではない。街中を歩いていても、全方位から音が聞こえてくるのが普通でしょう。そもそもステレオっていうのは、ステージ上にオーケストラが並んで演奏する場合の効果的音響として考えられたもので。サラウンドの方がずっと自然なんです。」サラウンドへの関心の芽は、幼少期の体験にある。「5〜6才頃、北京で暮らしていたんだけど、そこの天壇公園に回音壁というのがあって。円形の壁で、向こうの音が反響してこちらで聴こえる。空で鳥が鳴くと、その反響音で自分が宙に浮いたような気分になる。鮮烈な体験だった。」音につつまれたいという感覚への欲求、立体音響に対する意識は、果たしてその後ずっと彼の中に深く根を伸ばしてゆき、独自の音楽表現へと昇華されてゆくのである。

イエジー・スコリモフスキについて - 北小路隆志

「こうした言葉への禁欲を貫く映画作家のアプローチは、言葉の助けを安易に借りずに視覚的な手段ですべてを物語る技量への映画作家の自負の表れである一方、映画における台詞以外の聴覚的価値の傾聴へと僕らを誘うことになる。要するに、近年のスコリモフスキ作品は台詞のやり取りを必要とせず、だからこそ僕らは彼の映画で響くサウンドに耳をそばだてるよう要請される。『アンナ〜』ではレオンの足音や小さな町に響き渡る教会の鐘の音、パトカーのサイレン音、炎の燃え上がる音など、冒頭から聞こえるサウンドの連なりが僕らに緊張感を与え、そうした(視覚面とも密接に結びつく)聴覚面での大胆かつ繊細な企てが、近年の彼の映画の現代性を際立たせる。」
「言葉や意味に収斂されることのない「叫び」は、台詞や言葉以上にサウンドであり、後で触れるように人間と動物の教会を破壊するものでもある。」
ジル・ドゥルーズはスリリングなフランシス・ベーコン論『感覚の論理』でこう指摘している。「かくて残酷は何か恐ろしいものの描写と結び付けられることはますます少なくなり、単に身体への様々な力の作用、あるいは感覚(センセーショナルなのの対蹠物)の作用となるであろう。諸器官の各末端を描いている悲惨趣味の絵画とは違ってベーコンは、器官なき身体、身体の徹底した行為を絶えず描く」(山縣煕訳)
「叫びは人間に固有の行為ではなく、人間と動物の境界の不明分さにおいて発せられる。先の引用でドゥルーズの書く『人肉』とは『獣肉』と同一の次元にあり、『肉』である点において人間と動物は対等である。」
再びドゥルーズに耳を傾けよう。「ベーコンの絵画が構成するのは、人と動物との間の、識別不可能な地帯、確定不可能な地帯である。人が動物と成る。しかしそれには動物が同時に精神、それも人の精神、……身体的精神になることが必要である。それは決して諸形態の組み合わせではない。それはむしろ共通の事実である。すなわち人と動物との共通の行為である。(邦訳でフランス語の"fait"は「行為」や「事実」と訳し分けられ、いずれも「こと」とルビが振られる)
「問題は形態を再生したり、工夫したりすることではなく、力をうまく捉えることである。」
「すなわち世界は私の上で自らを閉じ、かくしてこの私自身をまさに捉える。他方私は世界に向かって自らを開き、かくてこの世界そのものをまさに開く」。こうして、「人」と「動物」のみならず、「世界」と「私」の区別さえもが融解し、識別不可能になった地帯
「希望が全然なくても楽観的になれるものです。人間の本性はまったくもって悲観的ですが、神経組織は楽観的な素材からできているのです」なる画家自身の言葉を踏まえたベーコンの表現方法へのドゥルーズの巧みな言及が想起される。「それは象形的には悲観的だが、形態的には楽観的である」。そう、『エッセンシャル・キリング』は、そこでの物語(象徴的なものや主人公の命運がいかに「悲観的」に僕らの目に映ろうとも、優れて「楽観的」な方法や思考に基づく映画であり、僕らを後天的な興奮へと導くアクション映画(行為―映画)の純粋形態なのだ。

地圏:楽園の象徴――都市、森、砂漠
水圏:生命体の象徴――海、川、池
気圏:天地創造と精神の象徴――大気、宇宙

ホットハウス - ポスト"クラブ"としてのダンスパーティーの再生 - 湯山玲子

「だって、私たちって、恋愛やセックス以外にほとんど、異性の身体と触れあうことって無いんだもの!」という大きな欠落とその欲求に、これは完全にハマった。菊地成孔音楽のデフォルトである官能性もオーディエンスが頭の中で妄想するだけではなく、このパーティーの現場で、実際に触れて感じる不特定多数の異性の肉体として現実体験としてこなしていかなければならないわけで、この敷居のちょっとした高さもまた魅力のひとつ。非リア充でいた方がなにかとラクな昨今、「ホットハウス」でもたらされる、身体的な冒険は、久々の人生ビビッド感として、参加者に伝播しているのが、彼らの高揚した表情から、ひしひしと伝わってくるのだ。
「ダンスフロアに男女の性差と身体性を持ち込む」
「あえて、文化的なギャップを作り、その差異を愉しむ」という根本マナーの一環。

「太平洋序曲」 Pacific Overtures