Bi-Bo-6

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記憶を記録 feat. 宇田川藍

不道徳教育講座 - 三島由紀夫

不道徳教育講座 (角川文庫)

不道徳教育講座 (角川文庫)

三島由紀夫というと、「潮騒って本を書いて、筋肉がすごくて、自害した人」っていう知識しかないんだけど、
友人がふと貸してくれた一冊を読んでその認識は一変しました。洞察力すごいんだなー。
男性性と女性性の溝に埋もれると、自我(とそれに付随する欲)の行き場がなくなって息がつまってしまう気がするよ。

p.10
だが私の見るところ、少なくともA子とC子は、はじめの新鮮な印象を裏切るようなものを持っているような気がするのでした。そう思うと私は妙にシュンとしてしまった。別に彼女たちに対して何の悪意も感じないが、何だか、十七や十八の年ごろで、目張りを入れた目に倦怠をにじませながら、溌剌と胸を張って歩く態度と、どこかだるそうな態度とのチグハグなカクテルを示して、タバコをふかしているその横顔を見るうちに、何だかとてもフビンな、可哀想な気がしてしまった。大人というものは、ただむやみに若さにあこがれているわけではなく、大人の目から見ると、若さの哀れさもよくわかるのです。

p.15
 少年期の特長は残酷さです。どんなにセンチメンタルに見える少年にも、植物的な残酷さがそなわっている。少女も残酷です。やさしさというものは、大人のずるさと一緒にしか成長しないものです。
 私は、少し脇道にそれたようである。学校の先生はというものは、乗り超えられなければならない存在なのです。学校の先生は、何でも知っているわけではない。それに一番困ったことには、少年期の悩みを先生自身もう卒業していて、半分忘れてしまっていて、その内側をもう一度生きることは不可能になっている。
 少年期そのものについては、諸君のほうが先生よりよく知っているのだ。

p.20
 「大人はウソつきだ。大人をゆるすな。」とハイ・ティーンは絶叫します。かれらは他人の不潔さをゆるすことができないのだ。ところで、私の経験だと、十代の時代ほど誠実そのものの顔をしたがるくせに、自分に対してウソをついている時代はない。自信がないくせに強がるのも一種のウソであり、好きなくせにキライなふりをするのも一種のウソである。そこへゆくと大人は、自分に対してウソをつくことがだんだん少なくなって、その代り、人に対して、社会に対してウソをつくようになる。ウソそのものの絶対量は同じだと言ってよい。

 すべてウソは独創性である。他人からぬきん出て、独自の自分をつくり出す技術である。〜本当にウソをつくには、お体裁を捨て、体当たりで人生にぶつからねばならず、つまり一種の桁外れの正直者でなければならないようです。

p.49
 女のヒモになっている不良少年は、もっと正々堂々と金を要求し、引っさらって行きます。性的主権と経済的主権を、共に握ることは男性のかわらぬ夢ですが、この考えがまちがってはしないか。資格もないのに両方握ろうとするから、女性にバカにされるのである。実際は性的に女性を征服するなどというのはバカげた妄想で、女というものは、特殊な条件でなければ、そういう男性の妄想に屈服しません。要はそういう特殊な条件を創造することにかかっている、と私は考える。
 現代の大多数の女性は、経済的主権のあやふやな男性に対しては、たとえ性的満足を得ていても、彼の性的主権というものを心底認めていない傾きがある。しかも男はあやふやなまま両方握ろうとするから、さっきの青年のような恥をかくのです。
 ヒモはちがいます。ヒモは経済的主権などは屁のごときものと思っていて、そんなものを握ろうともせず、金は女が作って持って来るものだと考えている。経済的主権を全く持たぬのみかそれを軽蔑している男を仰ぎ見て、女は性的主権を喜んで捧げるのです。彼は彼女には、性の権化、男性の権化に見えてくる。威張り返って金を搾取する男に、彼女たちは征服されたように感じる。なぜなら彼の主権には何らあやふやなものがないからだ。女はあやふやなものに敏感です。あやふやなものを嗅ぎつけると、すぐバカにしてかかります。経済的主権のあやふやな、現代の大多数の若い男性は、同時に、その性的主権もあやふやなものと見られつつある。これは男性の危機なのである。

p.76
そうしてショパンを聴きに行って、心から満足して帰る。それも趣味だから何ともいえないが、こういう人たちの中には、妙に「現代に対する嫉妬心」という精神分析的病気の持ち主が多い。自分が流行の中心になるなら、流行もゆるせるが、そうでないなら、流行なんかに従ってやるものか、というレジスタンス精神は立派なもものだが、却ってそういう人の頭の中には流行が、現代が、現代のもろもろの事象が、自分をのけものにして進んでゆくものとして、しじゅう心に焼きついている。むしろ流行が固定概念になっているのはこういう人たちです。

p.123
 女というものは、両先生(サルトルボーヴォワール)によると、男の性欲の主体的なのに比して、主体の対象としての「物」いわばオブジェになってしまうところに存在理由があるので、愛されるときには自分の主体性を捨てなければならぬように躾られている。しかるに男は、主体そのものであって、愛するときも主体を失わない。「物」になってしまうということがない。〜
 女性は自分の肉体に、個性と主体性を自らみとめない傾向がある。これが女性が流行に弱い一つの理由でもあります。〜
 とにかく女の人が自分の体に対して抱いている考えは、男とはよほどちがうらしい。その乳房、そのウェイスト、その脚の魅力は、すべて「女たること」の展覧会みたいなものである。美しければ美しいほど、彼女はそれを自分個人に属するものと考えず、何かますます普遍的な、女一般に属するものと考える。この点で、どんなに化粧に身をやつし、どんなに鑑を眺めて暮らしても、女は本質的にナルシストにはならない。ギリシアのナルシスは男であります。

p.136
九十九パーセント道徳的、一パーセント不道徳的、これがもっとも危険な爆発的状態なのであります。七十パーセント道徳的、三十パーセント不道徳的、ここらが最も無難な社会人の基準でありましょう。〜
たった一つの不徳を持つべきではない。沢山の不徳を持つべきである。

p.148
芸者たちは、こういう人情の機敏の大専門家であって、人が近よるのも怖れる大政治家のハゲ頭をピシャリと叩くことも平気でやる代りに、抜け目なく、女の目から見た一人の男として、彼をみとめるふりをします。そのためには、芸者という存在は、「女であること」の立場を一歩も離れません。芸者が女史になってしまったら、彼女の無邪気な性的嬉しがらせも、相手の心に触れることはないでしょう。

p.158
そこで最初の話に戻るが、女性にとっては、本当のところ、御用聞きとの高笑いという程度の浮気から、実際に良人以外の男と寝る浮気までの間には、程度の相違、量的相違があるだけで、質的相違はないのだというのが私の考えです。これに質的相違があるかのごとく見えるのは、始末に困った社会や宗教や文化一般が、人工的にこしらえた衝立みたいなもののおかげにすぎません。だから「よろめき」が罪だとしても、どこからどこまでが罪で、どこまでが罪でないかという本当の目安はないのです。こういう目安を作ったのは宗教というものですが、いっそそれなら、女性という存在を罪深いものと規定した仏教のほうが、ずっと筋が通っています。

p.184
・「日本」と呼べば、「世界文化の吹きだまり」と答え、「カルピス」と呼べば、「初恋の味」と答える。
・話題過多症
・キャッチフレーズ娘/息子
私に言わせれば、なまじっかな「意見」なんかより、自然な「機智」のほうが、ずっと人生の知恵として高度なものであります。マスコミにおいて最も涸渇しているのは、こういう自然な機智であります。

p.191
人間というのは困ったもので、外見と性格がうまく一致して一分の隙もない奴はむしろめずらしく、外見と中身の間には、多少ともソゴのあるのが普通です。悪口や批評はそこを狙うので、芸術作品にはこのソゴが端的に、拡大されて現われて来るので、ますます狙いやすくなる。作品というものは、小説や絵や音楽ばかりでなく、人間そのものを作品にすることもできるのであって、世間にはそういう人間もいます。我儘勝手で、弱点だらけで、始末に終えなくても、とにかくその人の外見と性格が完全に一致していて、文句のつけようがなく、手のつけようがない。それで一生通ってしまう。こういう人の一生は、いわば芸術作品の傑作と同じことです。こんなのには、いくら悪口を言ってみてもつまらない。

p.201
やたらに人に弱みをさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。それは社会的無礼であって、われわれは自分の弱さをいやがる気持ちから人の長所をみとめるのに、人も同じように弱いということを証明してくれるのは、無礼千万なのであります。そればかりではありません。どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。というのは、どんな人間でも、その真実の姿などというものは、不気味で、愛することの決してできないものだからです。これにはおそらく、ほとんど一つの例外もありません。どんな無邪気な美しい少女でも、その中にひそんでいる人間の真実の相を見たら、愛することなんかできなくなる。仏教の修業で、人間の屍体の腐れ落ちてゆく経過をじっと眺めさせて、無情の相をさとらせるというのは、この原理に則っています。
ここにおそらく、人生と小説との大きなちがいがあります。ドストエフスキーの小説などを読むと、そこに仮借なく展開されている人間の真実の姿の怖ろしさに目を見張りながら、やはりその登場人物を愛さずにはいられなくなるのは、あくまで小説中の人物であり、つまり「読者自身」だからです。

p.220
しかし思うに、フー・ノウズは都会生活のダイゴ味でこそあれ、この英語には、やはりどこかに、日本的でないものがある。この言葉と対をなして、多分「神は知っている」という意識が彼らにはあるにちがいない。神は知っているが、人間同士の間では知られない。そこにフー・ノウズの本当の味があるような気がする。キリスト教、すくなくともアメリカの清教徒精神からいえば、「自分が知っている」ということは、すなわち、「神が知っている」ことだからであります。

p.236
もっと常識的に言えば、相手の人格をみとめた上での性欲はワイセツではなく、人格から分離した事物としての肉体だけに対する性欲がワイセツだということである。ですからワイセツは観念的であり、非ワイセツは行動的である。

p.240
現代の性ノイローゼの根本は、「衰弱」を「衰弱と反対のもの」ととりちがえる、かずかずの誤解、みせかけ、虚栄心にあるのです。

p.243
人を尊敬せず、信用せず、善意を信じないとなれば、友好的に行くにかぎる。十歳にして大外交官とならねばならん。表面だけは、いかにも相手を尊敬し、信用し、善意を信じるふりをするべきだし、その場限り主義を、絶対に忘れるべからず。そしてつまらぬことで相手を傷つけず、なるたけ相手のハートをマッサージして、いい気持ちにさせて帰してやるべきだ。〜
 〜特権を与えてもらったという錯覚を、相手に抱かせねばらなん。そのためには、丈夫な柵を僕のまわりに張りめぐらし、合法的に柵の中へ入って来た人間にだけ、笑顔を見せてやる。それもとろけるような笑顔を見せてやるのだ。
 こんな態度は、なるたけ不公平に、気まぐれに、不合理にやらねばならん。そうすれば、そんな僕の笑顔が相手のためだけではなく、僕の性格の証明ということになって、ますます値打ちが出る。
それから、笑顔を見せてやる相手は、えらい奴ばかりではいけない。えらい奴と同時に大バカにも、笑顔を見せてやらなければいけない。バカは信じやすいし、感激性があるし、僕に笑顔を見せられたことを人に吹聴するし、その結果、僕が笑顔を見せたえらい奴も、自分の特権意識を捨てざるをえなくなるだろう。オレがえらいから、あいつが笑顔で応対したのだ、とは思えなくなるだろう。これが一番大切だ。
 そこで僕は、貴族的な評判と民主的な評判とを、どっちも自分のものにすることができる。この二種類の評判は、どっちが欠けていてもいけないものだ。

p.249
死や水爆や戦争に対する恐怖は、受動的な恐怖であって、こちらの自由を圧殺して来るおそろしい力に対する恐怖ですが、それに比べると、カニやクモや鼠や油虫に対するわれわれの恐怖は、むしろ積極的なものだ。われわれはそれらを、進んで怖がるのです。
〜人間は自由でありたいと同時に、その自由が百パーセント完璧のものであることを怖れる気持がある。自由でありたいが、又自由をほんの一部分だけ掣肘されたいと思う。相手が水爆や戦争では、全自由を侵犯されてしまうが、相手が鶏料理やナメクジなら、ほんの一小部分を犯されるだけにすぎない。そこでわれわれはカニやナメクジなど、自分のヨワイものコワイもの、しかも他愛のないものを、積極的に選んでいるのであります。

p.253
愛する者は手ぶらで愛せるが、愛される者は、永久に愛されたいと思うかぎり、永久に多少の神秘を保存しなければならない。すなわち、尻尾を保存しなければならないのです。人はわかりきったものを愛することはできません。
〜秘密すなわち尻尾というものは、このきびしい冷酷な社会から、温かい友を釣り上げるための最上の餌であります。お金などでは決して釣り上げられない友情の魚が、こんな秘密の打ち明けによってやすやすと釣り上げられる。すなわち尻尾とは、友情や信頼を買う最上の通貨なのです。

p.257
私は文明人の最大のたのしみは、自分の内の原始本能を享楽することだと信じています。

p.272
セールスマンの秘訣は決して売りたがらぬことだと言われている。人が押売りからものを買いたがらぬのは、人間の本能で、敗北者に対して、敗北者の売る物に対して、魅力を感じないからであります。

p.276
すべて典型的犯罪、極端な形の犯罪が、お手本にもなり、標準にもなって、自分の少々の非行を正当化してしまう、というのが現代の風潮です。

p.279
人が他人の意思を自由に左右するということは、面白いことにはちがいない。政治も芸術も究極に目指すところは同じで、人の心を左右することの面白さである。しかしこんなスポーツにもルールはあるので、相手の理性をはっきり目ざめさせておいた上で、相手の心を左右するというところに、政治や芸術の公明正大さもあり、スリルもあり、苦心もあるわけだ。どこかの小説にあるように、女に眠り薬を呑ませておいて、やってしまうなどというのは、ルール違反であって、こんなのはスポーツの風上にも置けない。睡眠術と、モーツァルトの音楽や、印象主義絵画や、議会政治や、……こういうものは、「人の心を左右する快楽」という点で、同一線上にある筈だが、ことさら催眠術が胡散くさく見られるのは、ルール違反の疑いが濃厚だからです。

p.286
「これはただのお話ですよ。ウソの作り話ですよ。」
というのが、小説なるもののいわば看板ですが、それでも、イヤ、それなるがゆえに、読者に十分言葉の毒をしみこませることができる。小説をよむたのしみというのは、自分個人の身の上に実害のないということをよく承知しつつ、その約束の上で、思う存分たっぷり言葉の毒を身体中にしみこませてもらうたのしみだともいえます。

p.328
本当の恋愛とは、ギリギリの自我の戦いで、自分の自我が大きく相手に投影されて、ますます離れがたくなってゆくのだが、そんなことでは、恋人の交換なんかは思いも寄らない。せいぜい飽きたオモチャを友だちと交換するぐらいの気持ちでなければならない。その際にもきれいさっぱり、物惜しみをしない気持ちでなければならない。男の持っている癒しがたいセンチメンタリズムは、いつも自分の港を持っていたいということです。世界中の港をほっつき歩いても最後に帰って身心を休める港は、故里の港一つしかない。