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日常のあれこれ

「新版 生の欲望 あなたの生き方が見えてくる」 - 森田正馬

何も作者のことを知らずふらっと読み始めたら、「下駄」という文字が目に入ってきて、「ん?」と思ったら、戦前の精神科医であった。

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日本人の精神性や男性論・女性論におけるあるべき姿とそうでない姿がくっきりと論じられていて、「あるべき姿」へと矯正することへの迷いがない。この21世紀には一周回って新鮮な価値観にさえ映るので、なるほど、こういう心身論というのが復古主義的な人たち(戦前はよかったという人たち)に受けるのかなと感じる。

これらは「(理想的な・産業化)社会」にとって都合のよい論理で、過剰な実利主義にも映り、脱落を肯定するような筆致はやや気になるところ。

以下書き起こしは、私が無条件に首肯するものではないけれど、第二次大戦前夜の当時の世相が垣間見える語りや、森田理論ともいえる特徴的な言い回しを書いておく。

p.46

腹立ち、不平、疑惑などはわれわれの心に折にふれて当然おこる感情であるから、その感情のままにあるのを「自然に服従する」といい、親のいましめにいやいやながらも従い、職業上やらねばならぬことをいやいやながらも実行するのを「境遇に従順である」というのである。

p.54

楽にしたいというのは思想であり、働かずにおられないのは衝動であり、活気であり、現実である。思想は多くの場合、現実とは矛盾するものである。それは、たとえば「働かずにいられない」という自分の心の事実をありのままに見ることができないので、自分を第三者として「楽隠居した方ががよい」というように批判的に見るからである。

p.82

私の経験でも、長途の旅行から家に帰ったときなど、疲れたまま何か軽い仕事をして、少しも無駄に時間を過ごすということをしないでやっていくことができるのである。

p.85

お金と物品とはもともと同じ価値のものであるから、煙草一本とその代金、酒一升とその代金は経済的に見ると同価値である。ところが、多くの人は、煙草を三分の一ぐらいすった残りを捨てたり、宴会の席で酒やビールを捨てたりして平気であるが、お金となると五銭、十銭でも捨てる人がいないのはどういうわけであろうか。

p.125

大ていの人は、自分の気持ちをそのまま他人にあてはめて考え、その人の気持ちや立場になって考えるということをしないものである。子供のあぶなっかしいありさまや、木のてっぺんに登っている人を見ると、自分の心がハラハラして気がもめるものだから、その気持ちをそのまま言葉に出して「気をつけろ」とか「あぶない」とか言うのである。他人にあたえる影響を考えないでそんなことを言うのは、まったく思慮のない態度と言わねばならない。

p.129

孔子の言葉に、「小人の過つや必ず文(かぎ)る」ということがある、「文(かぎ)る」とは言いわけをすることである。

p.130

今日の教育は、ますます競争試験に走って記憶・思想と会得・実行が隔たり、無用有害の思想者・理論家を乱造しつつある。

p.135

われわれの気分や感情、すなわち純主観は、それが発動するのに次の三つの条件があると考えられる。

第一の条件は、身体内部の状態である。(略)

第二の条件は、心身の活動状態や、慣習、境遇などである。(略)

第三の条件は、外部の事情の変化である。

p.162

また現在の社会にたいする感想でも、自分の立場を明らかにし、一方では古今の社会現象を頭に置き、もう一方では広く生物・人類の現象に目を配っていくときに、はじめて正しい判断ができるのであろう。

p.179

ちかごろよく出版されるものに、『学問と人生』とか、『神経症の療法』とかいうものがある、ところがその内容を見るに、その本の題目に直接関係のない事柄までも、参考書から抜き書きにしたり、あるいはそれを真似たような書きぶりのものが多い。何か得るところがあるだろうと期待してそれを読んだ人は、役にも立たないような死んだ知識を吸収して、生かじりの半物知りになるばかりで、実際に当たっては何の足しにもならないことが多い。それらの本は、参考書ともつかない、単行本の意味ももっていないのである。

p.179-180

また、「衒学(げんがく)」といわれるものがある。それは学問らしく見せかけ、日常ありふれたことにもことさらに術語を多く使い、説明をむずかしくしようとするものである。(略)

学者の虚栄心による「衒学(げんがく)」も有害であるが、それよりさらに有害なのは「阿世(あせい)」、つまり世におもねることである。それはたとえば、実際の事実と遊離していながら、見かけだけは学問らしい研究にたいして、学者にその欠点と誤りを発見するだけの素養がなく、一般の風潮に付和雷同して、それを立派な学問であるかのようにもてはやすことである。ある種の学説が一世を風靡するほど流行し、やがてそれが忘れ去られていくのも、多くの学者の「阿世」によるものである。

このほかに「曲学」と言われるものがある。それはたとえば、常識的あるいは学問的な一定の原理から割り出した考えをどこまでも推しひろげ、論理の矛盾や飛躍をおかしていることにも気がつかないで、学問らしく説明してそれを実際の事柄に応用しようとするようなものである。

p.220

観相者の言うことでこっけいに思われるのは、観相者が私の職業や子供の数など現在の境遇を知ることはできないのに、将来おこる事件に関係ある人々の住む方角や、その顔形までこまごまと説明することである。

p.268

われわれの性質は生まれつきであって、どうすることもできない。それは仏教で言うところの業である。君の場合、自分は本来偏屈な人間である。気の弱い人間である、と観念するほかはない。それはちょっと聞くと消極的なあきらめのようであるが、じつはけっしてそうではない。われわれにはやむにやまれぬ向上心というものがある。少しでも進歩し、発展したいのがわれわれの本来の欲望である。わしはそれを〈生の欲望〉と名づけている。だから、われわれは、自分が偏屈な人間であると自覚したとき、いたずらに自分の考えに執着することをつつしむようになり、また自分は気の弱い人間であると自覚したとき、必要に応じて捨て身の勇気が生まれてくるものなのだ。

あとは、「迷いの出口として(自ら)死ぬとか、そういうことはあり得ない。死は迷いの出口にはなり得ない」みたいなことを書いていた部分が良かった。