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日常のあれこれ

オープン・スペース2014 - NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

オープン・スペース2014 / OPEN SPACE 2014


オープン・スペースは、ICCの代表的プログラムです。公式サイトには以下のように紹介されています。

オープン・スペースとは,2006年より開始された,ギャラリーでの年度ごとに展示内容を変える展覧会,ミニ・シアター,映像アーカイヴ「HIVE」などを,入場無料で公開するものです.ICCの活動理念にもとづき,より多くの方々に先進的な技術を用いた芸術表現とコミュニケーション文化の可能性を提示する開かれた場として機能することをめざしています.


 今回の2014年展示は、メディア・アートと称されつつも、なにか物質的な問いかけを感じさせる作品が多かったように思います。  
 
 下記に印象的だった作品をメモ。(強調は筆者)  
 

バイナトーン・ギャラクシー》2011年
スティーヴン・コーンフォード

数十台の中古のカセット・レコーダーが壁に掛けられて音を発しています.しかし,レコーダーの中のカセット・テープにあらかじめ録音された音が再生されているわけではありません.そこから聞こえてくる音は,レコーダーという装置自体がいまそこで発する音なのです.装置のモーターが駆動し,カセット・テープを走行,再生させる機構による挙動に伴って発される音を,装置内のカセットに装着されたマイクロフォン(圧電センサー)によって取り出し,増幅することで音を発します.

この作品は,カセット・レコーダーという技術の進歩に伴い使用されなくなっていく旧式のテクノロジーをオリジナルな音響発生装置へと作り直し,装置の持つ機能的な可能性を再考しています.本来,レコーダーという装置と,カセット・テープという記録媒体は,どちらか一方だけでは機能しません.しかし,この作品では,カセット・テープに事前に録音された音の代わりに,マイクロフォンがとらえたレコーダーのリズミックな機械音とカセット・テープのプラスチックのケースの中の音響特性を聴くことができます.それは,カセットの中の音響と機械それ自体の声を聴くことで,すでに消費されてしまったテクノロジーの持つ,もうひとつの意義を明らかにするのです.

なお「Binatone」は英国の電子・音響機器のブランド名に由来しています.

 カセットテープ&レコーダーを用いた作品は2000年代を過ぎてもなお様々なところで見かけます。2014年の第17回文化庁メディア芸術祭で受賞した「時折織成 ―落下する記憶―」も記憶に新しいかと思います。テープが落ちきり、巻き上げる瞬間に音楽を奏でるというユニークな作品でした。
 今回の展示も無数の「テープが巻かれる音」に満たされた空間で我々は何に思いを馳せるか、問いかけられているようです。
 技術は、上書き保存ではないはずです。さまざまな研究の中で膨大な数の分岐が存在し、膨大な数のバージョンファイルが作成されていった結果が、ひとつの「技術(いわゆる特許)」と呼ばれ社会的な価値を生み出してきたのではないでしょうか。懐古趣味やノスタルジーという感傷性を差し引いても、私は「失われていくテクノロジー」「既に消え去った"ロストテクノロジー"」にとても惹かれます。その延長線上に自分の生がある、と感じるからかもしれません。  


ジ・イモータル(不死者)》2012年
リヴィタル・コーエン&テューア・ヴァン・バーレン

《ジ・イモータル(不死者)》では,いくつもの機械がチューブでつながれています.これらはすべて,人間の身体機能を補うために作られた医療機器です.人工心肺装置,人工呼吸器,透析装置,保育器,自己血回収装置,酸素供給器,心電図モニターなどが,ここでは人間不在のままお互いに接続され,それら自体がまるでひとつの生命体であるかのように,作動音を発しながら自律的に塩水(血液の代わり)と空気を循環させる「生体活動」を行なっています.


 『考えの整頓』(佐藤雅彦)にはこんな一節が出てきます。

『開閉式のオルゴールは、「聴く人がいる/聴く人がいない』という外界の違いを蓋の開閉で判断する機構を持っていて、そのことで「音楽を奏でる/音楽を奏でない」というように自分の状態を遷移することができる。そして、判断する仕組みである小さな針金の突起を指で押されると、蓋が閉まったものと思い込み、音楽を止める』

 これ!まさにこれだと思いました。「普段、人体の生体活動維持のために動作する機械郡は、対象が生きていると思い込み働き続けている。」ひとつの見方をすれば、それらは紛れもなく命とみなされる運動です。そこに"命があること、命がないこと"を一体だれがなにがどうして判断できると言うのか。センシティブな境界線が見え隠れします。


 こうやって取り上げてみると、両方共アートのみならずドキュメンタリーの要素も感じる作品と言えるかもしれません。