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日常のあれこれ

「現代」という環境 - 渡辺雅男 + 渡辺治

「現代」という環境―10のキーワードから

「現代」という環境―10のキーワードから

下流社会 - 渡辺雅男

サッチャー政権が新自由主義的な政策で経済の再編や機構改革をおこない、それによって、イギリス国民がますます持てる者と持たざる者に分かれた時代。経済の先行きは明るくなっても、負け組になった人たちの大半は苦しい生活を強いられていました。かつては、「景気が回復すれば生活水準は上がるのだから、我慢しなさい」という言い訳に説得力がありましたが、低成長時代の景気回復は、けっして前の水準を回復しないのです。」
「人々がうすうす感じているのは、生活機械の格差の固定化です。社会のなかに自由に職業を選択し、実現できるような流動性がだんだんなくなってきているのではないか」
「かつては平等だったが、今になって格差が生まれた」→×そんなことはない
日本の社会は一貫して、格差の社会である。学歴社会というのは、そもそも格差社会の言い換えではないか。
「社会科学とはなにをすることでしょうか。私はいつも「社会という舞台でおこなわれているお芝居の筋を読み解くことだ」と答えています。私たちは、社会という舞台の上で、いろいろな衣装をつけ、さまざまな背景を前に、それぞれの人生を演じています。しかし、演者たちが気づかない脚本があり、その脚本に従って、ある役割を演じているわけです。うすうす気づいていても、演じているかぎりは、きちんとしたかたちで読み取ることはできません。この作業をするのが科学です。」
ジニ係数: 国民の間の所得格差の程度を示す
格差社会は不平等社会です。しかし、不平等が蔓延すればするほど、人間は、それを是正し、それに立ち向かい、抑えこもうとします。そういう動きが、人類の長い歴史を貫いてみられます。平等と不平等の葛藤・相克と言ったらよいでしょう。
 それは、人類社会が、生まれ落ちたときから、不平等を運命づけられ、またそれに立ち向かってきたからです。その動きは、最初は理念のうえだけだったかもしれません。宗教がそうです。宗教の発生には、いろいろ意味が込められていますが、「神の前ではすべて平等」という約束ごとがなければ、人々の心をひろくとらえることはできないはずです。現実が不平等だとすれば、宗教はそこからの唯一の救いです。
 しかし、不平等に立ち向かったのは宗教だけではありません。近代の科学もまた、不平等の問題を直視しました。」
三大古典: アダム・スミス(イギリスの経済学者)/カール・マルクス(ドイツ人の思想家)/マックス・ヴェーバー社会学
不平等な人類社会をなんとか平等の方へと向きを変えていく→「市民社会

不平等との闘い

市場: 封建時代、人々が対等の社会関係を結べるとしたらそれは市場しかなかった。しかし市場はその中で格差拡大という結果を生み出し、排除される人たちを生んでしまった。
政治の場での民主主義、あるいは参政権、そして普通選挙: 市場からも政治からも排除されていた二級市民が参政権を手にして政治の舞台に踊り出るようになります。参政権をすべての市民に約束して、市民社会を政治の分野へと拡張していったのが、二十世紀の大きな進歩だった
福祉(医療と教育): 戦後に訪れたステップ。以前は医療と教育は限られた人だけに許された特権的福祉でした。

エコロジー - 島崎隆

「持続可能な開発[発展] sustainable development」:1992年、ブラジルのリオデジャネイロで開催された環境と開発に関する国際連合会議、いわゆる地球サミットで基本概念が打ち出された

持続可能とは、地球上のあらゆる環境資源をわれわれの世代で破壊し消費し尽くしてしまうことのないように、最大限の努力を続け、子供や孫の世代に引き渡し、将来の健全な生活を保障するような開発をすすめるという考え方である。

しばしば「自然を保護する」という表現が使われるが、長い進化のなかで、つまりは人間は先住する自然の活動の中でようやく発生し、生存できるようになってきたといえる。その意味で、人間は最初から自然の恩恵をうけていることがわかる。

環境哲学

第一分野

自然科学: "自然哲学"や(狭義の)生態学: 自然の構造の認識や自然観を大きく提示するもの
自然観について
1.自然は労働と生産のための材料、道具となるだけでない
2.ペットとの付き合いなど、自然は人間と台東の関係をもつ
3.ビッグバン以来の長期の自然進化のなかで、生命と人間を能動的に生み出してきたもの

第二分野

環境倫理生命倫理: 人間は自然に対していかにふるまうべきか
近代では、自然は人間が開発の対象として功利的に利用するものであるということが、当然の前提とされてきた。しかしいまや、そうした道具的価値に加えて、自然そのものに内在する価値を尊重すべきだという議論が出てきた。
倫理というのは、通例、同時代の約束ごとやルールだったが、「持続可能な開発」をめざすなかで、将来世代とのあいだの倫理が構想されるようになってきた。

第三分野

社会認識・社会批判: "社会エコロジー"(マレイ・ブクチン)の観点: 環境問題も結局は、私たちのつくる社会の問題であり、市場経済を前提として、自然が利潤追求のための道具となっているという状況にメスをいれないと「自然にやさしく」というフレーズは茶番になってしまうだろう。
自然環境の問題は、人間と自然のあいだに起こるのではなく、人間社会の矛盾のなかから発生するとみなされる。またそこでは、豊かな北の人々が広く環境を破壊し、貧困な南の人々がその悪影響をうけるという意味で、環境的正義や環境格差の問題が問われる。

第四分野

生活者としての人間のあり方: エコフェミニズム
私たち人間の生命(生活 Life)の健康と自然界の多様な生命のありようをともに配慮する。経済的な生産労働に対して、家庭内での人間んの生産、子育て、老人などの世話、食事、清掃など(通例、再生産労働、ケア労働と言われる)が重視される。環境問題の解決は地域に根ざした生活者のありようから始まるとする、「生命地球主義」という考え方もある。


ダーウィンの悪夢 フーベルト・ザウパー監督
「環境哲学は、「飲食する」という行為が、はたして当然楽しい行為なのかという問題をあえて提起します。それは、ひょっとすると「罪」なのではないか、という問題です。グルメ的においしい消費生活を楽しむことへの問題提起になることはもちろんです。人間にとって生きるということは、意図的に他の生命を殺して食べる以外にないから、実は「生きとし生けるものとの共生」などということばは空疎に響きます。」


経済主義的エコロジー自由主義エコロジー: 経済成長を重視し、自然は人間にとっての資源ないし道具であるということを暗黙の前提としています。この考えが主流であるので、環境問題は止まらないわけです。
ディープ・エコロジー(アルネ・レス): 生態系に住んでいる生物はすべて平等であるという「生態圏平等主義」のもと、非常に深い自然中心主義を説きます。生物の多様性や共生を重視し、人口抑制や精神的成長の必要性も訴える。
エコロジーマルクス主義(ジョン・フォスターら): マルクスの『資本論』によれば、資本による人間の搾取・抑圧と、自然に対する搾取・抑圧は同根である。


「お金をたくさん儲け、モノやサービスをたくさん消費することが最高の幸せだというのではなく、なにかそれは不自然ではないかと感じるセンスが大事だということです。企業の宣伝が私たちの消費欲求を駆り立てているのではないか、という認識が必要です。」

5つのR

refuse: 拒否、買わない
reduce: 必要以上に生産・消費しない
reuse: 再利用する
repair: 修理して使う
recycle: 再生利用する

ワールドカップ - 尾崎正峰

IS-4(インターサッカー4): W杯やヨーロッパ選手権などサッカーの大きな大会を四年単位でパッケージにしてスポンサーと契約していく手法。オリンピックの"TOP"も同様に、ここで採用されたスポンサー制度は、一業種一社に限定され、宣伝効果の面でも、そしてW杯やオリンピックのロゴマーク使用許可を含めた諸権利の独占的供与を受けるなどの点でも、企業、とくに経済のグローバル化を象徴する多国籍企業にとって大きな魅力といえる。


オーストラリアでは、1973年、個別の民族文化を認めあいながら一つの社会としての融合をめざす「多文化主義」政策が表明されますが、サッカー界では、エスニック名を外そうという動きが出てくるというねじれ現象が起きました。これは多文化主義の理念が、現実の社会においてどのようなかたちをとって現われていたのかを照らし出す典型的な事例といっていいかと思います。


ユニバーサル・アクセス: 公共性が高い国際スポーツは大会は、だれでも簡単に、そして公平に見られるようにしなければならない。


ウェーバー: 勝つ勝つと煽らねば、チャンネルを合わせてくれない。その不安が、報道する側のクールな姿勢を忘れさせて」しまい、「地道な情報収集の労を厭う」傾向にあるとの批判もある
「ドイツ大会でいえば、予選リーグでの日本の敗退が決まってから、潮が引くかのようにトーンダウンしていったのは考えてみればおかしな話です。決勝リーグは世界最高のプレイが見られる貴重な機会です。自国のチームが負けたからといって、メディアの姿勢、ひいては、視聴者の態度がこのように変わってしまうことは、サッカーを文化として楽しむという観点からみれば大きな問題と言えます。」

まちづくり - 林大樹

エベネザー・ハワード(1850-1928):

ロンドン郊外のレッチワースで田園都市の構想。市民がつくって維持するまち。

ル・コルビジェ(1887-1965):

フランスで活躍した建築家・芸術家で、モダンを代表する巨匠。1951年、インドのチャンディガール。斬新なデザインの建築物を配置し、幾何学的な都市設計をおこなった。ところがインドの過酷な気候・風土のなかでは、巨大すぎる非人間的なまちになってしまった。

ジェーン・ジェイコブス(1916-2006):

アメリカ大都市の死と生

アメリカ大都市の死と生

「人間的に魅力ある都市のための四大原則」
1.街路の幅はできるだけ狭く、曲がっていて、1ブロックの長さは短い。
2.再開発に際して古い建物をできるだけ多く残す。
3.都市の各地区は必ずふたつ以上の機能をもつ。
4.人口密度が十分に高い。
職・住など複数の機能が混在する地域のほうが、時間帯によってまちが空っぽになるようなこともない。小規模な区画や、路地であれば、人の目が届きやすく、人間的で子どもにとっても安全である。

ケビン・リンチ(1918-84):

都市のイメージ 新装版

都市のイメージ 新装版

★リンチは、多くの人が都市を「よい」と考えるための手がかりとして、わかりやすさが大事だとしている。
1.アイデンティティ(その場所らしさ)
2.ストラクチャー(はっきりした構造)
3.ミーニング(意味をもった空間)
★具体的な空間要素
1.パス(道路)
2.エッジ(縁)
3.ディストリクト(地域)
4.ノード(接合点・集中点)
5.ランドマーク(目印)
国立: くにたち富士見台人間環境キーステーション

少子化 - 木村元

笑の教育: 笑われないように生きることをしつけておけば、あとは自然に共同体を逸脱しない人間ができた。柳田国男
子どもの発見: ジャンジャック・ルソーによってなされたとされる。『エミール』は教育の書。この本には、子どもに即した自然があり、それを大切にすることが必要であると書かれ、エミールという子どもを想定して、仮想の子育てをおこなっている。ルソーが批判した当時の絶対王政の貴族社会では、子どもは少しでも早く貴族としてのふるまい方を身につけなさいということがまかり通っており、子どもの自然と価値があるとしたことは、大きな認識の転換だった。
グラハム家の子どもたち(ホガース): それまでは愛情よりも持参金や性交渉などに重きを置いていた男女の関係が大きく転換し、情愛に満ちた男女の関係とその愛の結晶としての子どもが登場する。そこに近代家族の誕生がある。


モーツァルトの家族には二人の子どもが育ったとされますが、九年間の結婚生活で子どもは六人いました。育ったのが二人だったわけです。少子の意味が今日とは違うことが重要です。


江戸時代: 「赤ん坊のために尽くす社会」(モース)・「赤ん坊をよく殺す社会」(ゴローニン)
まず選別し、選ばれた者を丁寧に育てるという社会。


近代の子育ては、共同体、家族、国家の三つの力関係のなかで、いわば綱引きをするかたちでなされるようになる。
子どもにより高い教育を受けされるために子どもを調整する、という家族の戦略。これが、今日の少子化の前提にある。

親子ストレス―少子社会の「育ちと育て」を考える (平凡社新書)

親子ストレス―少子社会の「育ちと育て」を考える (平凡社新書)

「子育ては、自己犠牲がなければ、自己実現ばかりやっていてはできない」


「近代家族は確実に衰退し、あるいは壊れてきています。しっかりした家族に見えても決して安泰ではなく、よりよく子育てしなければいけないというプレッシャーが、社会や国家のなかでしきりにいわれる。それをきちんと受け止めようとすればするほど、逆に重圧になっていく事態が起きてはいないでしょうか。」
過度に子どもを価値視し、子育てが抑圧されている。
子どもが自立できる道筋をたてることも大切。

ミーム・プール - 古茂田宏

meme(ミーム): イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが『セルフィッシュ・ジーン(利己的な遺伝子)』という本の中で提案したアイディアで、ギリシャ語の「ミーメーシス(模倣)」と英語の「ジーン(遺伝子)」を組み合わせた造語。生物遺伝子との対比で、「文化遺伝子」というような意味。
集団選択説、集団遺伝学、ゲーム理論
利己的な遺伝子: もちろん利己的な個体が生存競争に勝ちやすく、その結果そういう遺伝子が次世代に伝えられやすいということもあるが、逆に個体が事故犠牲的に振舞ったほうがその遺伝子の継承に都合がいいときは、そういう行動をとらせる……というのが遺伝子の利己性である。
ドーキンスは、人間も含めて個体というものはその個体の設計図である遺伝子の乗りものにすぎないというショッキングな考え方を提示した。
遺伝子が細胞に宿り、生殖をとおして親から子にコピーされる情報単位だとすれば、ミームは一人ひとりの脳に宿るアイディア(観念)であり、その表出(行動や言葉)をとおして、周囲にいるすべての人に水平的にもコピーされうる力を秘めた情報の単位だと、さしあたりそんな風に理解してください。

雇用平等 - 木本喜美子

ヴェロニカ・ビーチは男性を「職場重視」モデル、女性を「家庭重視」モデルから分析するというやり方をやめ、職場の内部で、男性と女性への仕事の振り分けがどのような論理に基づいてなされているのかを考察しようと提起した。

トラウマ - 宮地尚子

「現在拷問の方法は「洗練」されつつあります。拷問禁止条約などによって処罰されないよう、証拠に残らない、けれども心理的には非常に恐ろしい方法が用いられます。恐怖にさらし、感覚遮断や身体拘束で本人のコントロールを奪います。不衛生な状態においたり、裸にさせたり、性的行為をさせて、本人の基本的価値観や自尊心を砕いてしまいます。「自発的」参加や「共犯」をうながし、仲間を裏切らせることで、自分がまともな人間であるという感覚を崩壊させます。「人間性」を剥奪され自己像を破壊された被害者が、自ら沈黙することを狙うのです。」
いじめのプロセス: 孤立化→無力化→透明化
×愛しているのならすべてを受け入れて当然
×強い者が弱い者を支配するのが当然
→DVにつながるおそれ。
相手を理想化したり期待をもちすぎて、幻滅したや裏切られ感から開いてを傷つけてしまうこともあるでしょう。相手から見捨てられることへの不安や恐怖から、過剰に防衛したり攻撃してしまうこともあります。その他、嫉妬や羨望、やつあたりや憂さ晴らし、権力欲や支配欲などから意図的に相手を傷つけることもあるでしょう。けれども加害者は、ほとんどの場合、いろんな言い訳をして、自分を正当化します。
人間の弱さ、不完全さを受容することは謙虚さにつながります。表面は明るくとも本当はどんな傷を背負っているか分からないという考えをもつと、人との接し方も変わります。また、多少不安や恐怖があっても、過剰に反撃せず、それを自分のなかに抱えて持ち続けることも、本当の強さだと思います。

インターネット - 加藤哲郎

情報: 広義には「あらゆる記号体系」狭義には「秩序だった有意味なもの」
「人間は情報の束である」(アルベルト・メリッチ): コミュニケーションとは情報と情報のやりとり、
H・A・サイモン: 客観的な事実としての「データ」、データが受け手に影響を与え価値観を変化させる「インフォメーション (情報)」、一般化・抽象化された「インテリジェンス(知識、概念、諜報)」の三層に分けた。どの階層にも情報の意味をかく乱する「ノイズ(雑音)」、主観的で間違った「誤報」、ウソの情報をわざと流す「虚報」がある。
インターネットは脱中心主義
ウォルター・リップマン『世論』: 「擬似環境」「私たちがリアルな環境だと思っているものは、実は擬似環境である。人々は自分の頭で作り上げたイメージ、他人の話やマスメディアなどを通じて外部から与えられた情報を環境だと思っているにすぎず、現実とはずれがある」

憲法改正 - 渡辺治

憲法の特徴
1.憲法は、ひとまとまりとなってあるべき国家、社会の構想を提示している。
2.憲法という環境は憲法典に書かれているだけでは自動的に現実の環境となるわけではない。
3.憲法典と現実との乖離を是正するために市民が立ち上がったとき、それは憲法環境を具体的に形成する梃子となり、第一歩となる
4.憲法環境は立ち上がった人のみならず市民社会全体を規定し枠づけして社会をかたちづくるという点
5.憲法環境は私たちの生活を外から規制するものではなく、むしろ人々の運動や働きかけで可変的なもの
アジアの各国が核と軍事力を拡大しているなかで、日本だけが「武力によらない平和」といってもリアリティがない。つまりは憲法第九条は、国際的な平和秩序の形成を求めることだといえる。