Bi-Bo-6

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日常のあれこれ

GLOBAL ENDS - TOTOギャラリー・間

公式サイト

近代化に対する盲目的な忠誠から抜け出して前進へと導くことを目指し、本展覧会では、7つの異なる視点による違いはありながらも、日々の生活における経験を通して批判的な目で現在の可能性を検証するために、原始からの過去と未来の両方に目を向けている建築家たちに参加を呼びかけました。本展覧会は、世界の果てへのヴァーチャルな旅を提供しながら、究極的には、豊かで、近い将来に実現可能なデザインの可能性を照らし出すことを目指しているのです。

ゲスト・キュレーター
ケン・タダシ・オオシマ
(建築史家/ワシントン大学准教授)

  • 建築は、美術であり文明活動であり、哲学である

現代において求められているのは、世界と私とをどのように関係づけるかです。ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)の影響もあり、これまでの世界の文化的中心地は、新たなローカル/グローバルの潮流、個人の感性、そして固有の気候と地形がいきいきと混ざりあって育まれた、新しい場所に移行したと見ることができるでしょう。

石上純也

どんなものでも吸い込むような空間、家の周りの庭が内側に取り込まれ、様々な家具が、その中に持ち込まれる。
中と外の境界はあいまいになり、住宅であることとそうでないこととの境界線もあいまいになる。その結果、生活の中に、いままでになかった豊かさと開放性をつくりだせたら、と思っている。
そこには、きっと僕たちの知らない、あたらしい環境がうまれる。

隠れ家 スミルハン・ラディック

「隔たりを取り去ることは殺すことだ」フランスの詩人ルネ・シャール
隠れ家は、透過性が低く、外界との過剰な接触を避け、記憶したそばから忘却されることを拒む。文明にせよ人生にせよ、その痕跡はこの世に残された最後の容器、旅行鞄である隠れ家に収められる。

LA NOSTRA VIDA:わたしたちの人生
(ONE LIFE: A JOURNEY OF SHARED CREARIVITY IN ARCHITECTURE)
人生そのものは意味を持たない。それは旅の過程で形成されていくものであり、私達にとっては身辺に関連した出来事や、日常的に感じられる達成感によって本質や意義を与えられてゆく。


旅の原点には、私達が求めるものと、そうではないもの、といった選択と理想がある。自らの足で歩むことでアイデンティティを形成してゆく。


私達はただのツーリストではない。なぜなら、表面だけをぼんやりと眺めるのではなく、直視し、知覚したいからである。耳をすませ、理解を深めたい。そして核心を知り、心を動かす。見物人のように逍遥するだけではいけない。


この度を共有するという意味には、対話を重ねること、独りで請け負う責任の重圧感から解放されること、一人が欠けても機能してゆくこと、集って豊かになること、互いの存在を感じ、妥当性を知ること、また、個人的な理由を取り払い、結束力を高めることで、個人では到底到達できないレベルへ創造性を向上させること、などを含んでいる。


創造力は広大であり、不朽であり、多彩でもある。私達の中の創造性は、ランドスケープ、デザイン、出版、写真、探求…といった要素によって決定される。


私達が追求している精神的な建築とは、長い旅の過程で、夢を具現化するための強靭な活力から生じた結果である。人生と建築は分離していない。具現化することで、これらを一つに結びつける。


私達全ては宇宙の一要素であり、あらゆる可能性に満ちている、という信念を持ちつつ、変容を遂げながらも永遠に旅を共に続けていくのである。

目で見る水
触って感じる水
耳で聴く水
あるいは静寂。

パウロダヴィッド

私たちが現在経験している経済危機は、過去のいかなるものとも異なります。過去の経済危機のタイムスパンのなかでは、リスクを避けるために高名な建築家を探す必要がありました。高名な建築家がデザインした作品は他のデザイナーのものより売れるチャンスが大きかったからです。
今回私たちが経験している危機は比較するものがありません。だからどうしてよいかわからず、自分たちを位置づけることができません。建築があまりに偶像的になり、「ワォ」という驚きの要素を常に追求しているこの時代において、多様な社会層に浸透している最近の建築活動は、いかにコストを下げるかという絶え
間ない探求の犠牲に陥っています。建築家は今、自らのスケールで「人間」というものに再び焦点を当てるチャンスかもしれません。

ケリー・ヒル

若い、献身的、革新的、多国籍、場所に根ざした

トム・グンディグ

グレン・マーカットが非常に簡潔に述べていますが、彼にとつて建築は理性的なものと詩的なもの交差点だと。その言葉を聞いた時、それが自分にとって「ピンときた瞬間」だと思いました。彼の言葉で表現された建築こそ、自分にとって真に意味のあるものだと感じたからです。合理的なものと詩的なものが交差し互いに情報を与えあうことを知っていたからです。合理性なしに詩的なものは得られないし、詩情なしに合理的なものも得られない。このふたつの要素の交差なくして建築は得られないのです。私にとってそれは意味のある定義だと思いましたし、以来その定義を変えていません。
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一般的な標準はもっともリスクの少ない解決策というだけです。一般的な標準から外れれば、明らかに何かリスクをとつていますが――命のかかわるようなことではありませんが――、機能をリスクにさらし、美をリスクにさらします。そして、だからこそリスクをとると人生が興味深いものになるのだと思います。

RCR / アランダ・ピジェム・ヴィラルタ・アーキテクツ

“建築は長い道のりの旅において夢を実現させるための芸術である"と私たちは考えています。そしてこの旅において、建築を芸術もしくは世界の神秘を解く内観と同等ものとさせたい。

いままで建築というと私は作品や写真を見て感嘆するだけだったけど、今回のGLOBAL ENDSでは建築家の方々の「思想」に触れることができたのがすごく楽しかった。「なぜ、建てものなのか」って問いの答えを個々が追い求める姿を見せてもらえたし、どれもが予想以上に哲学を含んでいて刺激的!
   ――http://twitter.com/#!/aimerci/status/41405678429937665
文明の証だしひとつの芸術や表現でもあるし、私たちのからだとか生活にも密に関わっていて、果てしないなぁって。"THE JAPAN ARCHITECT"って専門誌?の79号に載ってる、石上純也さんという建築家の書いた「純粋な建築について」という文がやばい…
   ――http://twitter.com/#!/aimerci/status/41412258772811776