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日常のあれこれ

美術館をめぐる対話 - 西沢立衛

美術館をめぐる対話 (集英社新書)

美術館をめぐる対話 (集英社新書)

SANAAというグループで妹島和世と共に金沢21世紀美術館・ニューミュージアム、ロレックス・ラーニングセンターなどを手がける。

「現代のヨーロッパの建築家は、古い町という歴史的な遺産をもっていて、そこに自分が設計した建築をつくります。その現代建築はすごくラディカルなものだったりするわけですが、同時に古い町に対する信頼があります。町や周辺の建物の古さを信頼しているからこそ、新しいことをやれるわけです。それをコンテクスチュアリズム(文脈主義)と呼びます。例えばお隣さんの建物の高さがこれくらいなら、自分もそれに合わせる、もしくは敢えて変える、いずれにしても周りのコンテクストを頼りに建築を設計する。〜環境というものは未来永劫変わらないものだ、という認識です。これはヨーロッパの建築・都市において主流の考え方で、建築を設計するうえでの基本的な態度になってきました。」
「東京で建築するときの問題のひとつは、東京では建築の古さが信頼できない、ということです。古い建築は全部壊されていく運命にあるのです。それは未来永劫変わらず建っているというような代物ではない。こちらが隣の建築に合わせて建物を新築すると、今度は隣のおじさんがこっちに合わせてつくりかえてしまったり、ということが平気で起きる。街並みというものが、どんどん変わっていくのです。だから東京では、ヨーロッパの町でありえたような、コンテクスチュアリズムは不可能です。」
「いくつかの先鋭的な現代美術は、古いクラシックな建築物で展示するときに、その鮮鋭性が鮮やかに感じられる。しかし、展示する美術館が同じくらい現代的で、軽いものである場合、アート作品が重厚な歴史的建造物の中で見たときとはずいぶん違って見えてしまう、ということが起きる。」
「建築というのは、敷地の中につくられるという基本的なルールがあります。しかし体感的には、むしろ敷地よりも大きいといえます。例えば建築は遠くから見えるし、通りの雰囲気を決めてしまったりもする。建物の設計によっては、お隣さんの生活スタイルを変えてしまうことだって起きます。〜建築はそのサイズの大きさから、敷地単位を超越するような、ある種の環境をつくる。」
「それぞれ自分なりのイマジネーションに基づいて、使える空間かそうでないか、という判断があるのだと思います。天井高が高い部屋での展示は難しいですけど、むしろ大空間を前提にしたほうがいろいろな可能性やフレキシビリティが広がる、そっちの方が使える、そういう風に考える人がいる。そのいっぽうで、天井がすごく高いと、もうなにもできないと思う人もいる。キュレーターの個性、思想によって美術館のあり方は大きく変わるんだなと思いました。」
「セレモニアルで立派な建築が望まれる、ということはありますね。それは、今の日本の美術館の機能のひとつに美術を制度として権威づけるということがあるのと、そもそも発注者側にそういう儀礼的な殿堂をつくりたい、という欲求があるからでしょう。」「もっとも僕としては、権威づけのための象徴性であれ、ほかのどんな意味での象徴性であれ、建築に特定の象徴性を与えたくないんです。建築はモノとして建つものだから、それを見たり体験する人が、結果的にそこから意味をとるのは当然のことです。でも、その意味は人それぞれで違っているのが理想だと思うから、どうやって象徴性を消すかということを考えます。特に、美術館は、そこで思わぬことが起きる場所のはずでしょうから、象徴性というところから最も遠い施設なんじゃないかな、と思います。」
「どんなことをしたいのか、といっても、それは機能というより、その場所で人々が居るそのあり方というか、空気感のようなものです。そうして、イメージされてくるのは、設計するものの物的なモノとしての形というよりは、設計するものを含めて、周辺全体の内部と外部が未分明なぼんやりとした景色のようなものです。」
「都市は、その名前が変わっても、国家が変わっても、なお存在し続けます。僕らの人生と比べものにならないくらい長大な時間を行き、いろんな時代のいろんなニーズ、人々の要求を受け入れて1000年以上存在し続けるものです。つまりそうした歴史という、僕らの時代を超える超越的なものが、都市空間としての豊かさにもなっていると思うんです。」
ギャルリー・デュ・タン:リニアであると同時に面的にも見せるという感じです。単なる線的な流れではなく、ヨーロッパの中の各地域同士の関係、地理的・面的な広がり、またギリシャやアラブの文明と美術がヨーロッパ世界に入ってくる、そういった空間的・地理的関係性というものも、時間方向の流れとともに感じることができて、歴史の流れとヨーロッパの世界の地理的広がりを、同時に感じることができます。ヨーロッパ史を体験できます。
「全体像を最初に決めて、そこから詳細を決めていくという場合は、足し算というよりはもっと割り算的になっていく、どんどん話が細かくなっていくわけですが、足し算というのは、とにかく最初のアイディアにどんどん増築するようなものですから、全体像がそのつど変わっていくダイナミックさがあるのです。」
Less is more:より少ないものこそがより豊かである
「この種の発想は日本でも多いわけですよ。例えば再開発で新たに街をつくるときに、何をもってこようかというと、グッゲンハイムの支店をつくればいいという話になりがちなところがある。それでは海外の有名ブランドを買ってくるのと同じで、自分たちの文化にはならないと思うのです。つまり、どんなに有名な美術館をもってきて、観客がたくさん入ったとしても、誰もそれをその街の文化とは見てくれない。その街の文化と認めてもらうには、そこがつくり出した文化と文化装置がなければならない。〜独自の美術館の活動や、コンセプト」
「成功している美術館とは、自身のあり方に常に懐疑的でありつつ、同時に来館者にも健やかな批評の精神を呼び起こさせるものなのです。」
「アートにとって何が大事かということと、美術館の描く軌道とは一致しません。美術館が一方をいき、アートは他方をいくのです。」
「私は建築とそれが与えてくれる学問的成果、特に共同体の携帯や公共意識のあり方、公共的なことへの関わり方などを考察する能力には多大な敬意を払っています。それに対して美術作品は時として集団的な受容とは相いれない、ひとりひとりとの親密な関係や体験の個別性といったものを必要とします。」
「私は個別の知覚と集団的な知覚とを兼ね備えた(融合させるのではなく)空間をつくり出すことこそが最上なのだと信じています。美術館にいるとき、私たちはとてもパーソナルでくつろいだ気分になりつつも、全体的な共鳴を感じることができます。これは美術館のもつとても深遠な一面だと思います。私たちは「個別に美術館を所有」しているのです。この共有はとても大切なことで、他社を認識することによって、私たちは主題を理解するひとりひとりの知覚の差異にも敬意を払うことができるようになるのです。この敬意がやがて批評性の基盤となります。」
「所有は個人だとしても、存在としては公共的なもの」
パブリック:お上・お役所→自分たちのもの・等身大・have