Bi-Bo-6

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日常のあれこれ

時計じかけのオレンジ - スタンリー・キューブリック監督

"A Clockwork Orange"

時計じかけのオレンジ [DVD]

時計じかけのオレンジ [DVD]

1971年/アメリカ


出演
マルコム・マクダウェル/パトリック・マギー/マイケル・ベイ


悪趣味の贅を尽くしたくなったときに、どうぞ。


何もかもがあべこべで、作品自体がまるで踏み絵。


この映画が好きだからといって、その人が暴力的な人間だっていう判断だけは、間違ってると思う。
全然そういうことじゃないんです。


★----
はじめの方の過激な暴力シーンで「生理的にムリ」を感じる人は多いと思う。
…それがひとつの正解でもある。
いろいろな感想を見てると「こんな暴力映画最低」という評価も多い。
実際私も大学の講義で、車を飛ばすシーンまで、生まれて初めて見たときは
「これが、どうおもしろいの?」って感じてたから、その気持ちもすっごいわかる。


ただ、ルドヴィコ療法に話がシフトしていくところからが、この映画の本番。
この映画、はじめは目に見える(傷が残る)暴力的な表現に満ちているけど
どんどんストーリーが下っていくにつれて、精神的な痛みにフォーカスが移っていく。
まず「観客が中盤まで目をそらさずにこの作品と向い合ってくれるか」これが、ひとつの踏み絵。
だって、アレックスの映画療法と同じことを私たちもされてるんだよね?


「暴力は、良くないよ」と、自分の天秤を持ち出して善人になることを求められてるのではなくて、
暴力という事実があって、目の前で繰り広げられるという超現象をまっすぐ見つめることができるか。


アレックスはものすごく不道徳な人間なんだけど、頭の回転もすごくはやいタイプ。アンチヒーロー
いろんな暴力表現が出てくるけど、とにかく彼の「楽しんでる」っていう様子が嫌というほど伝わってくる。
私はあれだけの暴力シーン全然楽しくなかったし文字どおり苦痛だったんだけど、
「暴れてるアレックス」彼そのものはすごく魅力的で、かっこいい。
そういう意味では「暴力も、ひとつの趣味だけど?」みたいなスタイリッシュさはあるのかもしれない。
要は、残忍な殺人犯である彼のことさえ、私(たち)は嫌いになれない。これも、踏み絵。


クラシックの音楽、っていうかベートーベンの第九。
これだよね、この映画の醍醐味。
ウィリアム・テル序曲と早送りのシーンもすごく印象的だし、こういうのを"最初にやる"人ってやっぱり異才だなあって思った。
だってクラシック畑の人間からは絶対非難されるもん。
アレックスを嫌いになれないっていうところと第九はすごく影響しあっていて、
ベートーベンの攻撃的な音楽を聴いてたら、変に納得しちゃうような。
自分も少年の衝動を暗に受け入れてしまうような、そんな感覚があった。


あらゆる暴力表現=苦痛になった体で治療は大成功したんだけど、
神父の言っていた「選べないなんて、人間じゃない」という言葉が一番のキーポイントだと思った。
「暴力という道を選ぶ」ことは、究極においては人間の欲の一定量を占めていて、逃れがたい本能にリンクしてる、のかもしれない。
夢の世界で各人の欲求があらわになったら、面白いのかもね。
共産主義への強烈な風刺も、ここに集約されている。
「更生した」はずの評価が一転、「非人道治療」という言葉に変わる。
くるくると変わる世間の価値観も見所。


そしてまた、どうして彼は暴力に対する拒否反応を示すようになったのか、一考の余地がありそう。
他人には手を上げられないのに、自分は飛び降りちゃったし。
それまでの血気盛んな表情と、治癒後の彼の冷めた顔。
人間の二面性も端的に表してる。


ナッドサットは冒頭でのインパクト。見事なパラレルワールド感。
ミルクとコップのセンス。
雨に唄えば」で踊ってるアレックスは、マッドサイエンティスト
病院で順調に「回復」していくシーンの彼の口調は、あまりにも紳士的。
ラストシーンの皮肉っぷりは言わずもがな。ってか最後の一瞬のために、見る価値はある気がする。


もうとにかく興奮さめやらぬって感じで何から話せばいいかわからないんだけど、
私の言いたいことをそのまま書き記していたレビューを見つけました。

極上のアイロニーhttp://movie.goo.ne.jp/review/cinema/PMVWKPD6347/1_16/index.html


なんというか、
常識とか慣習とか分別とか
そういったものが分かるひとに見てもらいたい
じゃないと「何がおもしろいの?」ってことになり兼ねないとおもう


暴力や強姦がスタイリッシュに描かれていて云々・・
などと批判的な捉え方もあるのでしょうね
(感受は実に個人的なものであるから、
それはそれで一つの解釈なのだと思います)


しかし、この映画は「暴力や強姦ですらスタイリッシュに、カッコよく描いてしまうことができるメディア」の力の脅威を
身をもって表しているんじゃないだろうか


自分で自分を笑う
この映画の存在自体が皮肉


少なくとも私はそう感じた


そして、この作品における暴力や強姦は
とりたてて特殊なものであるのか


この映画では、見るに耐えないシーンが幾らかあるが(それも個人差があるとはおもうが)、
現実の世界の方にこそ、目を覆いたくなるものが溢れているだろう
事実、私たちは都合の悪いことに気づいてないフリをして(或いは本当に気づいていないのかもしれないけど)
毎日を無難に過ごすことに努めているのではないか


暴力や強姦に対して《善人》が抱く「嫌な感じ」は、本人にとって確かなものであろうし、
「嫌な感じ」のするものから目を逸らすのは、合理的な行為であり、それ自体に矛盾などない
しかしながら、その「嫌な感じ」から目を逸らしたところで、それ自体の存在が消滅するわけではない


暴力や強姦は、「嫌な感じ」がするものの例として、可視的であるから扱われているのであって、この作品において暴力や強姦それ自体の意味を問い詰めることは無意味な気がする