Bi-Bo-6

Bi-Bo-6

日常のあれこれ

NEWSWEEK '09 12.23

Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2009年 12/23号 [雑誌]

Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2009年 12/23号 [雑誌]

労働党は名門イートン・カレッジオックスフォード大学で教育を受けたキャメロンとその取り巻きの経歴に注目を集めようとしている。今月の議会で、ブラウンはキャメロンの税制政策を「イートンのグラウンドで思い描いた夢」とこき下ろした。
 金融危機以降続く金融街シティーへの批判とも巧妙に組み合わされた戦術だ。英政府は12月9日、金融機関の高額ボーナスに対する50%の特別課税を発表した。「銀行をたたき『上流階級カード』を切ることで、労働党は金融界と保守党を同一視させることに成功した」と、世論調査機関コムレスのアンドルー・ホーキンスは言う。
 世論調査などによれば、党首になった05年以降キャメロンが続けてきた党のイメージ刷新は成功していない。最近の調査では、回答者の半数以上が保守党を「金持ちの党」と考え、47%がキャメロンを「一般国民をだ表するにはあまりにも裕福で特権階級的」とみる。
 反論は容易でない。キャメロンは相続税の軽減を訴えているが、相続税を払うのは主に富裕層。さらにキャメロンら影の内閣のメンバーの多くが億万長者だ。詰まるところ、保守党は一般有権者よりずっと銀行家に近いと思われている。保守党にとって選挙で必要なのは、一般有権者の票なのだが。」
中国市場:ダイヤ消費が日本抜き2位に
「保守派が使いたがるこんな言葉がある。保守派とは現実に襲われたリベラル派だ――。陳腐な言い回しだが、一定の真実がある。」
「欧米企業も、国外で安い労働力を調達することがすべてではないと思い知った。製造から供給までの過程が長くなるほど、政治混乱の影響を受けたりエネルギー価格に左右されたりと弊害も多くなることをこの2年で学んだ。
 中国が世界の工場であることに変わりはない。だが需要が不安定な時代においては、たとえコストが高くついても近場で生産したほうが効率的だと悟った企業もある。
 政治も脱グローバル化にひと役買っている。景気後退は保護主義的な動きを引き起こした。アジアやヨーロッパ、北米の先進国は輸入品に新たな関税を設け、輸出業者に補助金を出し、景気刺激の資金の使い道を国内に限定し、自国の銀行や自動車メーカーには特別な支援を行った。」
Hulu:広告収入で運営されているサイトで、主要株主にはテレビネットワークのNBC、ABC、FOXも名を連ね

セレブほど素敵な「ショー」はない The Greatest Show on Earth

「故ダニエル・ブーアスティンは1961年の著書『幻影の時代――マスコミが製造する事実』で、セレブを「有名であることで有名なだけの人物」と定義し、それを「アメリカの退化」を示すものの1つと論じている。
 当時はテレビに代表されるマスメディアが台頭し、文化が大きく変質しようとしていた時代。ブーアスティンはセレブを、そういう時代の文脈で捉えた。アメリカ人が現実そのものより現実のイミテーションを好み、中身はなくともあるふりをすればいいと、考え始めた時代である。
 ブーアスティンは、ひたすら宣伝目的でのみ行われる記者会見や写真撮影会、映画の特別上映といった仕掛けを、「擬似イベント」と呼んだ。この場合、セレブはさしずめ「歩く擬似イベント」だ。売名行為でスポットライトを浴びるだけの、むなしい存在。以来、この定義が引き継がれていた。〜
 しかし、セレブについては別の定義もあり得る。〜
 まず、セレブはメディアがでっち上げた薄っぺらな存在ではない。実際のところ、セレブは古典的な娯楽(映画、本、演劇、テレビなど)に勝るとも劣らぬ新たなアートの形態ではないか。
 今のセレブは、かつて古いメディアが果たしていた機能の多くを、新しいやり方で担っている。時には現実から目をそらすとか、人間の弱さに目を向けるとか、みんなの一体感を生み出すような共通の経験を提供するといった機能だ。

 セレブというショーは、主役に加えて共演者(共犯者)がいてこそ成立する。しかも、このショーは銀幕や舞台の上ではなく、人生というメディアで演じられ、それを別のメディアが広める。メディアあってのセレブなのだ。
 厳密に言えば、セレブと呼ばれる人物に物語があるのではない。共演者を含めたセレブという現象自体が物語なのだ。だから英国のエリザベス女王は、有名人だがセレブではない。しかし故ダイアナ妃はセレブだった。知名度に加えて、ダイアナは物語を面白くする共演者に囲まれていた。
 現象としてのセレブと本物の有名人を区別するのは簡単だ。いわゆるセレブが「有名」でいられるのは、その人が面白い物語(もしくはメディアが面白いと思う物語)を提供している間だけだ。

 プアスティンは、映画が小説を心理描写に追いやったことを例に挙げる。動きの描写では、小説は映画に勝てない。しかし人物の内面を掘り下げる段になると、映画は小説にはかなわない。だから小説は、心理描写を好む少数の読者相手に細々と生き延びてきた。
 それと似たことが、セレブとそのほかの古いアートの競争でも起きているようなのだ。
 映画や小説、演劇、TVドラマはフィクションを現実のように見せ掛ける。観客なり読者は登場人物に感情移入し、登場人物の身に起こることに一喜一憂しては、次はどうなるだろうとハラハラ気をもむ。これが娯楽の常道だ。
 こうした点で、セレブ話は映画や小説に比べ、圧倒的な強みを持つ。第1に、セレブ話は本当らしく見せ掛ける必要がない。彼らのストーリーは実際にあったこと。どんなにとっぴなエピソードも、実話なのである。
 大衆に感情移入してもらうための努力も、セレブは必要としない。そもそもセレブは、私たちが感情移入できる相手(どこにでもいる人)か、私たちの妄想を代理体験してくれる人(スーパースター)、そのどちらかなのだ。」
「セレブ話には最終章がない。」
「セレブ話は人々の会話のネタになり、病んだ社会を癒すセラピー効果をもつ(強烈な羨望と妬みに灯を付けるという副作用もあるが)」
「例えば芸能誌のUSやピープル、ハリウッドセレブ・ブロガーのペレス・ヒルトンの書き込みを読むと、恋や失恋、親になった喜び、罪悪感、傲慢さへの罰、名声と富に恵まれることに伴なう不都合、自分を見失うリスク、そして逆に自分を見出す喜びなどを知ることができる。
 とりわけ教えられるのは、人生において何が大切か、何が大切でないかについてだ。」
「もっとも、私たちは意地悪な見方をするためだけに固定観念を用いているわけではない。エール大学のジョン・ドビディオ心理学教授が最近私に語ったように、私たちは自分の周りにあるものを理解する1つの手段として、固定観念を用いている。
固定観念に当てはめることで、複雑な世界を最小限の努力で素早く理解できる」と、ドビディオは言う。「だが効率性と引き換えに正確さが犠牲になり、偏見に満ちたまま固定化する危険性がある」」

「実利だけでなく正義を追い求めよう」と、ウィルソンはプリンストン大学で語ったという。損得も大事だが、まず重んじたのは主義信条。政治的な意見の相違や裏切りは我慢できたし、実際に耐えもしたが、公共の利益という理念への攻撃は許せなかった。」
「秩序は「正義の普遍的支配」へつながる。自分はその道を整える道具だと、ウィルソンは考えた。」
「ウィルソンは正しさとは何かを定義できず、したいと望んでもいなかった。正義は有機的なものだと考えていたからだ。だが自分の主観や良識でそれを理解しようとして道に迷うこともあった。
 ウィルソンは挫折感の中で24年に世を去った。」

「抽象表現主義の作品は個人的で謎めいていて、呪術的であるとも言われた。そのロマン主義的傾向は、ポップアートの誕生でばかげた気取りにしか見えなくなった。
 奇妙なわかりやすさこそ、ポップアートの最も過激な特徴だ。ポップアーティストには隠された秘密などない。彼らが相手にしたのは、ひと握りの者にしか分からない西洋美術の伝統ではなく、雑多な現代社会だった。
 それでも「ポップアートジャンクアートを幼稚だとけなす」のは「教養にかける」と、詩人のフランク・オハラは言い放った。その作風には皮肉と政治性が満ちているからだ。
 美術評論家のヒルトン・クレイマーはこう語った。ポップアーティストは「ブルジョアよりブルジョアらしくあること、ブルジョアの座を奪うこと、復習を込めて彼らの役割を演じること」を心に決めているかのようだ、と」

ティム・バートン

――今では自分の映画を制作するのに困ることはない?
  いや、いまだに苦労する。現実を知ったらきっと驚くよ。いろいろな利害が関係するから、常に何かしら問題が出てくる。でも何とか解決する道を探し出すんだ。


「かつては誘拐からトリプル不倫、記憶喪失まで何でもありのぶっ飛び展開が主婦層のハートをがっちりつかんだ。でも今では、昼メロ顔負けのリアリティー番組やお騒がせセレブには勝てないみたい。」