Bi-Bo-6

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日常のあれこれ

☆日本人と嘘 - 桧谷昭彦

日本人と嘘 (1978年)

日本人と嘘 (1978年)

「うそがつけるということは、子どもにとってそれだけ知能が発達したことを意味し、そのうそのおよぼすさまざまな反応から、子どもは人間としての人格の形成を学びとる。」
「虚構の表現のなかの現実性をみずから獲得しようとする格闘を演じているのである。」
「子どものつくうそを、どのように受けとめ、どう処理し、理解してやるか。これが子どもを産んだからには母親の責任としてあるのである。離れてみている父親の、子にたいする態度としてあるべきなのだ。それは空想と想像の才能が花ひらく慶賀すべき前兆なのである。」
「子どもは、つねにおとなが考えているよりもおとなである。そして、いつも、おとなの仲間入りを願望している。一個の人格として認められることを切望している。それがふみにじられ、現実の子どもの位置にすえ置かれることに耐えられない。オオカミ少年の心理は、分析すれば右のごとくになる。彼にとって「オオカミが来た」と叫ぶことは、おとなの社会に参加する通行切符をそのつど手に入れることであり、彼の存在が村民たちに認められることである。」
「ある願望の、ある夢の成就を可能にすることばであった。おとなたちは、この少年の地獄のようなさびしさが理解できるほどロマンチストではなくなっている。そういう感受性はとうの昔にきえてなくなっている。」
「虚言癖がある子どもだからといって、その子に大人が不信の目をむける前に、おとなや親たちは、そのうそは、なにを訴えようとしているのかをさぐる努力をしなければならない。」

「それはそのことばのなかに、現実の恐怖と、羊の損失という実在感があったからである。おとなたちの心のなかに、この情報を知らせた少年についての存在感はない。そしてこの情報がやがて虚報であると知ったとき、村人たちの心を占めていた、オオカミの群れへの恐怖と羊の損失という実在感は消滅する。
 〜子どものうそという観点から解釈してみれば、なぜ少年がくり返しうそをつかねばならなかったかを、疑問としなかった結果であると読むこともできる。そう理解すればこの寓話は、子どものうそにたいするおとなの関心の希薄さを戒める物語として現代によみがえるではないか。」