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記憶を記録 feat. 宇田川藍

「リー・ミンウェイとその関係展:参加するアート――見る、話す、贈る、書く、食べる、そして世界とつながる」 - 森美術館

リー・ミンウェイとその関係展:参加するアート―見る、話す、贈る、書く、食べる、そして世界とつながる | 森美術館

森美術館、改装前最後の企画展でした。 本展のテーマは「つながり」。web、SNSなどを通じてバーチャルに膨大な量の情報が流れ込む現代だからこその、足元に目を向ける問いかけ。開館以来10年間の活動のラストを飾るにふさわしい都市性・社会性に富む内容だったと思います。
まずは、トレーラー映像から。


Twitterをまとめながら感想を書いていこうと思います。
リー・ミンウェイ(李明維)は1964年台湾生まれ、NY在住のアーティスト。「明維」の字は明治維新からとったと言います。祖父・祖母らは東京の大学(しかも明治大学や女子医大などの名門!)で学んでいたということです。

「その関係展」の特長は、なんといっても「会期中に展示がどんどんアップデートされていく」こと!参加型なんです。つながり・関係性、"between"について語るには"AとBの存在"がかかせない、そしてAとBによってbetweenの意味も変わっていく、ということなのでしょう。

リー・ミンウェイの参加型作品は、ギャラリー内で誰もが参加できるもの、事前に申し込んで参加するもの、抽選に当たった人だけが体験できるもの、アーティストに代わってお客様をお迎えするホスト役となるもの、また全くの偶然で参加できるものなど、さまざまなタイプのものがあります。展覧会場でもらった花を帰り道に知らない人に渡す、思い出の布をエピソードを添えて展示する、言えなかった言葉を手紙にする、砂絵の上をあえて歩きイメージを崩すなど、アーティストが用意する多様な枠組みに観客の皆さんが参加することで、作品は活き活きとした輝きを見せていきます。展覧会はまるで生きているかのように、107日間、変わり続けます。
 ―公式サイトより


私は展示最終日に行ったので、「107日間の集大成」を目にすることが出来ました。事前の口コミどおり混んではいなかったものの、時間が経つにつれ人が増えてきたなという印象だったので閉館間際は結構賑わっていたのかもしれません。この日は階下の森アーツセンターギャラリーにて「ティム・バートンの世界」展も最終日を向かえていて、こちらは17時時点で80分待ちでした。


簡単にいえば、「左に本物(自然美)、右にそっくりのレプリカ(文明の叡智)を並べたとき、何が違って、何が同じで、あなたはどちらを選ぶ?」という問いかけ。3Dプリンタの登場で複製がさらに容易になった現代、「かたち」「意匠」の意味や価値もどんどん変化していくのでしょうか。


関係性、とはとても抽象的な概念です。それらは目に見えないし、触ることも出来ません。概念の共有って、むずかしい。けれども「記憶」は私達にとってとても身近な要素だし、「自分事化」を容易くするのに充分なキーワードだと思いました。


(禅についての講釈) 無明(アヴィディア)と業(カルマ)は知性に無条件に屈伏するところから起るのだ。禅はこの状態に抗う。知的作用は論理と言葉となって現れるから、禅は自ら論理を蔑視する。自分そのものを表現しなければならぬ場合には、無言の状態にいる。  ―鈴木大拙

禅[ZEN]の概念を日本語から英語に翻訳し、アメリカに伝えた第一人者と言われる鈴木大拙の言葉が引用されています。西洋哲学が「主体と客体」という切り分けから始まるとすれば、禅はその反対で「境目のない状態」「ひとつであること」がスタートでありゴールでもある、と説かれます。この対比は、洋の東西の思想の違いをとてもわかりやすく表しています。


アラン・カプローは、"Activity"という名称で「文と文脈」の切り分けに挑戦し続けました。「対象者Aは机で文字を書きながら時折鼻をかむ。対象者Bは椅子に座りBの姿を見つめながら、Aが鼻をかむたびに、その動作を真似る。」こういった実験から、AとBの関係性(親密度)にどういった変化が訪れたのかを観察しました。
 恋愛における心理学などで、よく「カフェにいるとき、同じタイミングでコップを持ち上げたらとても仲が良い証拠(ミラー効果)」などと言われますが、この実験はまさにそういったノンバーバルな部分から「ヒト同士の本能的な距離感」をコントロールしようとしたものでもあると思います。 パーソナルスペースの話題も出てきました。
 また、展示キャプションにあった「子供を叱る母親(怒り:一次的メッセージ)と、その怒っている姿におかしみ(いつもとは違う声や表情の変化:二次的メッセージ)を見出して笑い出してしまう子供」の例示は分かりやすいし、思わず自分の経験に照らしあわせて共感してしまうものでした。

こうなると、自分は芸術家だと名乗るのは、皮肉なことになる。というのは、人をアーティストだと決定づけるものが、特別なスキルの才能ではなく、いまひとつ、アートとも人生とも言い切れない、代替物を目の前にしたときにその人がとる、ある哲学的な姿勢となるからだ。
 ―Allan Kaprow(アラン・カプロー)


参加型アートゆえ展示が生きている、という話は上段にもありましたが、ほぼすべての作品の横には液晶ディスプレイがあり、リー・ミンウェイ本人のインタビュー映像を通して作品に対する理解を深める仕様になっています。「リー・ミンウェイとはどのような人なのか?どんな人生を歩んできたのか?なぜその作品が生まれたのか?インスピレーションは?その作品が私達にもたらす影響は?」などなど、彼は魅力的な程にオープンに語り、饒舌なのです。(台湾からアメリカに渡って芸術を学んだという境遇も関係しているでしょう。実際、大学生活で友人をつくるために「知らない人を食事に誘ってみた」という体験を着想に、今回も《プロジェクト・ともに食す》という企画を実行しています。)
言い方を変えれば「もはやアートではなくドキュメンタリー」という表現ができます。「NOTアート」と「ALSOドキュメンタリー」は対立しているものではありませんが、私達の文脈には「アート=(時には意図をもった、時には意図をもたない)つくりもの」「ドキュメンタリー=無調整・無添加(に限りなく近いもの)」という認識が強いのではないか、と仮定して「ではなく」という接続詞を使いました。


 

田中功起の《どれもこれも》は、居酒屋の仕込み作業がループ映像になっているというもの。これは本展で一番人だかりが出来ていた作品でした。(展示の動線上ちょうど椅子に座りたいタイミングだというのと、ひと目で「飲食店の調理」だと分かるイージーな部分が尚更ウケていたのだと思う)





 振り返って、総じて「読ませる」企画だったなと思います。文字も、意図も。読解力が必要とされます。そこに正誤や善悪はありませんが、「読み解く」という行為に自分が向き合えるか、がそれぞれの《プロジェクト》を楽しめるかどうかのひとつのキーになっていたのではないでしょうか。(入場してすぐ、展示No.1《プロジェクト・女媧(ヌワ)》はまさにその踏み絵的な作品でした。故事・古い物語をテーマにした作品を、「そんなお伽話ありえないじゃん」などと馬鹿馬鹿しがらず、自己をどれくらい移入して作品に向き合えるかを試されていたような、そんな気がしました。)
 参加型アートという方法論的な解釈はもちろんあるのですが、それよりももっと「プロジェクトの意図をきちんと理解した上で、参加する」というプロセスこそが重要視されているのでは、と思ったのです。展示キャプションであったり、リー・ミンウェイの本人の言葉であったり、それらにきちんと向き合って、解釈して、その上で《試み》に参加してみる、というプロセスです。

 実際、インタビューの中でリー・ミンウェイはこう答えています。

―美術館の外、公共の場でこういったプロジェクトを行うつもりはないのですか?
ありません。美術館に来た人の中で、さらに私のプロジェクトに共感してくださった方々が行動を起こしてくれる、ということが重要だと考えています。たとえ数が少ないとしても、とても誇りにおもっています。

 なんと、「リー・ミンウェイと私たちの関係展」だったのです。


Take Part, Make Art.