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日常のあれこれ

生物と無生物のあいだ - 福岡伸一

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

詩的な文体がうつくしい本です。

分子生物学的な生命観に立つと、生命体とはミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、すなわち分子機械に過ぎないといえる。デカルトが考えた機械的生命観の究極的な姿である。生命体が分子機械であるならば、それを巧みに操作することによって生命体を作り変え、"改良"することも可能だろう。たとえすぐにそこまでの応用に到達できなくとも、たとえば分子機械の部品をひとつだけ働かないようにして、そのときの生命体にどのような異常が起きるかを観察すれば、部品の役割をいい当てることができるだろう。

遺伝子ノックアウト技術によって、パーツを一種類、ピースをひとつ、完全に取り除いても、何らかの方法でその欠落が埋められ、バックアップが働き、全体が組みあがってみると何ら機能不全がない。生命というあり方には、パーツが張り合わされて作られるプラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している。ここには何か別のダイナミズムが存在している。私たちがこの世界を見て、そこに生物と無生物とを識別できるのは、そのダイナミズムを感得しているからではないだろうか。では、その"動的なもの"とは一体なんだろうか。

パスツールやコッホの業績は時の試練に耐えたが、野口の仕事はそうならなかった。数々の病原体の正体を突き止めたという野口の主張のほとんどは、今では間違ったものとしてまったく顧みられてない。〜けれども彼が、どこの馬の骨とも知れぬ自分を拾ってくれた畏敬すべき師フレクスナーの恩義と期待に対し、過剰に反応するとともに、自分を冷遇した日本のアカデミズムを見返してやりたいという過大な気負いに常にさいなまれていたことだけは間違いないはずだ。その意味で彼は典型的な日本人であり続けたといえるのである。

結局、私たちが自然に対して何かを記述できるとすれば、それはある状態と別の状態との間に違いがある、ということでしかない。

素焼きの陶板で微生物を含む水を"濾過"することができる。〜ちなみに現在、発展途上国の衛生向上のため配布されている濾過ボトルもこれと同じ原理が使われている。さすがに陶板ではなく、その代わりに高分子を網目状に成型した薄いフィルターが装着されている。フィルターの網目の大きさは――これをポアサイズと呼ぶが――、0.2マイクロメートル程度である。

ウイルスは、栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろん二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない。つまり一切の代謝を行っていない。ウイルスを、混じり物がない純粋な状態にまで精製し、特殊な条件で濃縮すると、「結晶化」することができる。これはウエットで不定形の細胞ではまったく考えられないことである。結晶は同じ構造を持つ単位が規則正しく充填されて初めて生成する。つまり、この点でもウイルスは、鉱物に似たまぎれもない物質なのである。ウイルスの幾何学性は、タンパク質が規則正しく配置され甲殻に由来している。ウイルスは機械世界からやってきたミクロなプラモデルのようだ。

ウイルスは生物と無生物のあいだをたゆたう何者かである。もし生命を「自己複製するもの」と定義するなら、ウイルスはまぎれもなく生命体である。ウイルスが細胞に取りついてそのシステムを乗っ取り、自らを増やす様相は、さながら寄生虫とまったくかわるところがない。しかしウイルス粒子単位を眺めれば、それは無機的で、硬質の機械的オブジェにすぎず、そこには生命の律動はない。

物か事かあまり定かではないが、何らかの無生物が主語で、そのbehaviorについて記述された文章だった。意味は取れるものの、誰もうまく訳せなかった。そんなとき後ろのほうにいた四年生が、ふるまい、って訳されていることが多いですよ、といったのである。物質のふるまい方。それ以降、この言葉は私の引き出しに大切にしまわれた。

別の言葉で言えば、研究の質感といってもよい。これは直感とかひらめきといったものとはまったく別の感覚である。往々にして、発見や発明が、ひらめきやセレンディピティによってもたらされるようないい方があるが、私はその言説に必ずしも与できない。むしろ直感は研究の場では負に作用する。これはこうに違いない!という直感は、多くの場合、潜在的なバイアスや単純な図式化の産物であり、それは自然界の本来のあり方とは離れていたり異なったりしている。

DNAが相補的に対構造をとっていると、一方の文字列が決まれば、他方が一義的に決まる。あるいは二本のDNA鎖のうちどちらかが部分的に失われても、他方をもとに容易に修復することが可能となる。

「彼女(フランクリン)はただ「帰納的」にDNAの構造を解明することだけを目指していた。ここにはあらゆる意味で野心も気負いもなかった。ちょうどクロスワードか今ならさしずめ数独パズルを解くように、ひとマスひとマスを緻密につぶしていく。その果てに全体像としておのずと立ち上がってくるものとしてDNAの構造がある。ジャンプもひらめきもセレンディピティも必要ない。ただひたすら個々のデータと観察事実だけを積み上げていく。禁欲的なまでにモデルや図式化を遠ざける。」
「一方、ワトソンとくりっくはといえば、彼らは典型的な演繹的アプローチによってDNA構造に迫ろうとしていた。それは一種の直感、あるいは特殊なひらめきによって、きっとこうなっているはずだ、と先に図式を考えて正解に近づこうとする思考だ。結論を急ぐあまり、ともすれば自説に不利なデータは無視する傾向にある。しかし一方で大胆な飛躍は旧弊を打破し、新しい世界を拓くこともあるのだ。」

確かに、科学データは客観的に見える。しかし、データAを目にしているすべての観察者が、まったく同じ客観的事実Aを見てとっているわけではない。一見は、百聞に勝るかもしれない。が、その一見がもたらすものは異なる。そしてその異なり方、つまりデータが一体何を意味しているのかという最終的なアウトプットは常に言葉として現れる。その言葉を作り出すものが理論負荷性というフィルターなのである。

貝殻はたしかにDNAがもたらした結果ではある。しかし、今私たちが貝殻をそこに感得する質感は、「複製」とはまた異なった何物かである。小石も貝殻も、原子が集合して作り出された自然の造形だ。どちらも美しい。けれども小さな貝殻が放っている硬質な光には、小石には存在しない美の形式がある。それは秩序がもたらす美であり、動的なものだけが発することのできる美である。動的な秩序。おそらくここに、生命を定義しうるもうひとつの基準(クライテリア)がある。

粒子は、水分子の衝突によって絶えずこづきまわされて、予言することのできない方向へ移動していく。ある場合には濃度の高い方向へ、またある場合には低い方向へ。それでも(ここでは重力にあたるものがないにもかかわらず)、全体を平均してみると過マンガン酸カリの粒子は濃度の高いほうから低いほうへ規則正しい流れを生じさせている。なぜか。それはまさに各粒子がまったくランダムに動いているからに他ならない。

それは、すべての秩序ある現象は、膨大な数の原子(あるいは原子からなる分子)が、一緒になって行動する場合にはじめて、その「平均」的なふるまいとして顕在化するからである。原子の「平均」的なふるまいは、統計学的な法則にしたがう。そしてその法則の精度は、関係する原子の数が増せば増すほど増大する。
〜生命現象に参加する粒子が少なければ、平均的なふるまいから外れる粒子の寄与、つまり誤差率が高くなる。粒子の数が増えれば増えるほど平方根の法則によって誤差率は急激に低下させうる。生命現象に必要な秩序の精度を上げるためにこそ、「原子はそんなに小さい」、つまり「生物はこんなに大きい」必要があるのだ。

エントロピーとは乱雑さ(ランダムさ)を表す尺度である。すべての物理学的プロセスは、物質の拡散が均一なランダム状態に達するように、エントロピー最大の方向へ動き、そこに達して終わる。これをエントロピー最大の法則と呼ぶ。ところが生物は、自力では動けなくなる「平衡」状態に陥ることを免れているように見える。もちろん生物にも死があり、それは文字通り生命という系の死、エントロピー最大の状態となる。しかし、生命は、通常の無生物学的な反応系がエントロピー最大の状態になるのよりもずっと長い時間、少なくともヒトの場合であれば何十年もの間、熱力学的平衡状態にはまり込んでしまうことがない。その間にも、生命は成長し、自己を複製し、怪我や病気から回復し、さらに長く生き続ける。つまり生命は、「現に存在する秩序がその秩序自身を維持していく能力と秩序ある現象を新たに生み出す能力をもっている」ということになる。

むろん、これは比喩である。しかし、砂粒を、自然界を大循環する水素、炭素、酸素、窒素などの主要元素と読みかえさえすれば、そして海の精霊を、生体反応をつかさどる酵素や基質に置き換えさえすれば、砂の城は生命というもののありようを正確に記述していることになる。生命とは要素が集合してできた構成物ではなく、要素の流れがもたらすところの効果なのである。

時間軸のある一点で、作り出されるはずのピースが作り出されず、その結果、形の相補性が成立しなければ、折り紙はそこで折りたたまれるのを避け、すこしだけずらした線で折り目をつけて次の形を求めていく。そしてできたものは予定とは異なるものの、全体としてバランスを保った平衡状態をもたらす。