Bi-Bo-6

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日常のあれこれ

サラの鍵 - ジル・パケ・ブレネール監督

"elle s'appelait sarah"

2010年/フランス/仏語・英語

東京国際映画祭 最優勝監督賞/観客賞 受賞


今年観た中で、一番「感情を揺り動かされた」作品。一番濃かった111分。
私達が何気なく過ごしている「日常」の尊さ。どんな人にもその人自身のかけがえのない人生と運命があること。
そしてそれらに翻弄される痛みと悲しみ、あるいは立ち向かうエネルギーについて…
そういったものが、強烈な波として迫ってくる。私たちは、生のよろこびさえも喪失によって実感するしかないのだ。


国際映画祭でのプライズも華々しいニュースですが、芸術作品として、あるフランス人がつくった映像作品のひとつとして、人間の演技の究極として、過去を見つめる現代人としての目線として、さらには大河と小川がミキシングされた非常にすぐれた脚本として、そのいずれをとっても最高の評価を得るべき作品だと思った。

「サラの鍵」今年で一番濃い111分でした。公開されたら必ずやすばらしい評価を得るはず。私たちは昨日の嫌なことをすぐに上書きしたくなるけど、新しいものばかりに目がいきがちだけど、大きな歴史も個人の歴史も、ほんのわずかな点の連なりなのだと改めて気がつかせてくれる。
フランス警察が、ナチ時代に同じくユダヤ人を連行していた事実を私は知らなかったし、映画というフィクションの形を借りたとしても、きちんと向き合うことは、とても真摯な姿勢だと感じる。
「こんな恐ろしい事実、吐き気がするわ」「あなたがもしパリの真ん中にいたら、どうしてると思う?」。第二次世界大戦の悲劇を、現代人的な感性から見つめる視点と、当時を生きた人々の姿に寄り添う描写、そして身近な家族の抱える心の痛みの3つの感情どれに対しても、私たちは移入できてしまう。
嫌悪してしまわない程度に生々しく見せるという、バランスが素晴らしいと思った。ちょっとサスペンスだし、笑える部分(滑稽というより微笑ましい)もちゃんとあるし。生死や人生なんていう主題では、夏にツリー・オブ・ライフも観たけれどそれとはまた趣旨がぜんぜんちがうのでかなりおすすめです。
   ――https://twitter.com/#!/aimerci/status/139949859036856320

★---


以前「敵(もしくはライバル)役にも感情移入できる作品のすばらしさ」として「いわゆる娯楽作品といえば敵と味方みたいなものが分かれていることって多いと思うけど、そういうクセのある("向こう側"に感じがちな)登場人物に対しても「あ、私たちとおなじ人間なんだ」って思える瞬間のうれしさには独特のものがあると思う。」*1と評したことがある。
今回私たちが気持ちを重ねる場面は、いずれも「同じ人間だからこそ、わかってしまう痛み」を含んでいる。それは悲しさであり怒りであり小さなやさしさであり、すなおな心である。喜怒哀楽はグラデーションであり、壁によって断絶される感情ではない。



ネタバレをふくみます








親子の愛と(もはや愛ではどうすることもできない)悪化する現実。
政治と弟(フランス警察の政治的"誤"判断とサラが弟をクローゼットに隠した"誤"判断の並列。求めざる結果を招くことに対しての、私たちの無力さ)。
現状を受け入れない勇気、奪う存在としての大人、与える存在としての大人、憐れみと施し。
そのどれもは、善悪や判断や知性という「概念」をとうに超越した「36℃」を感じさせる。hotかcoldかを考える隙もなく、正でも負でもない、ただ目の前で繰り広げられる圧倒的な事実とそれによって沸き起こる感情の波に翻弄される。感情は、脳内物質レベルで考えれば喜びも涙も、ひとつの「ストレス」でしかない。私たちは生きていく日々を豊かにするためか(はたまた失望するためかわからないが)、そのストレスに味付けをして、発露する。逆をたどればどれもがおなじ"刺激"なのだ。


サラは、泣かない。(これも私がこの映画を手放しで賞賛する理由の一つ)なのに映画を観ていた私は、家族がヴェルディヴ(冬季競輪場)に連行されてきたシーンからもうずっと涙が止まらなかった。そこで描かれる、かなり暴力的な「ユダヤ人迫害」の事実に、頭の中は「もし、私が」でいっぱいになってしまった。不衛生な競輪場に着の身着のまま連れ去られ、身も心もぐったりしたなかで、自分にとってすべての存在である両親と引き剥がされる。私もきっと、画面のなかで泣き叫び狂うこどもか、その母親になっているだろう。それらをあしらい、容赦なく力で押さえつける「警察」の皆も同じフランス語を話す人々である。
こういったショッキングな描写が比較的作品の導入部分にあることで、この作品そして彼らの感情にどっぷり移入できたことが、鑑賞にあたっては大きな影響を及ぼしたように思う。トラウマの残らない程度に(それでもR-15だったはず)生々しく見せ、私たちを42年当時の渦の中へ一気に引きこむ。暴力を表現することは非常に難しいと思う。こういった、いわゆる「PTSD」な部分を刺激するような話であればなおさら、拳銃の打ち合い*2などよりもよっぽどセンシティブになる。一種のドキュメンタリーかのように淡々と描くあたりに、改めてフランスっぽさを感じられた気もする。


ジャックが、有刺鉄線を広げて脱走の手伝いをする場面は、映像描写として美しいものの(特に手がとげで血まみれになるところなど)脚本に少しの強引さを感じた。違和感を感じるのは作品を通してこの場面のみだった。そしてまた、おそらくだけれど「よろしくね、ジャック。私はサラ」と手を差し伸べるシーンやその少し手前の「ありったけの服を着こむのよ。刺さっても痛くないように」というセリフはサラの頭の回転の良さを描くためのもの。そういうわけで、兵士が手を貸すシーンは(少々強引であれ)、彼女のカリスマ性を表現するエピソードとして必要なのだろう。


はじめはみすぼらしい身なりの少女2人を煙たがっていたさほど裕福でもない田舎の夫婦が、些細なきっかけで(今回は吠えない犬だったが)子供らを介抱し始める流れも世の物語の中ではよくあるパターンかもしれない。ところが夫婦と娘たちのおたがいが必要以上にセリフをしゃべらないことで、とてもミステリアスな関係になっていく様が描かれる。サラがおばさまに「ミシェルよ」と嘘の名前で牽制し距離感をうまくつかめないままハグされる場面は、先程述べたカリスマ性の逆、甘えることに不器用な女の子の一面でほほえましくもある。一緒に逃亡してきた子が病に侵されて亡くなってしまうこと、それによるフランス公安の執拗な聞き込み、そこにきて夫婦がシロだと判明したのもつかの間、男装したサラが列車でパリに戻る際の取引など、観客の緊張感は高めたままでテンポよく話が進んでいく。そしてサラはついに弟のクローゼットにたどり着き…。


ここで観客は弟の(変わり果てた)姿を目のあたりにするわけではない。のに、今でもあの絶叫シーンを思い出すと身の毛がよだつ。サラは、よかれと思ってしたのだ。約束していた。


ここで物語はひとつの転換を迎える。それまでにもジュリアはジャーナリストであり、アパートの秘密・サラの秘密を探ろうとしてきたことが描かれていたが、探求のさなかに発覚した懐妊や夫とのすれ違い、祖父母時代の秘密とサラのその後…誰もが過去に蓋をしようとすることについてなど、現代における人生の重みと、サラの時代の苦難の間を、質量をもって往復する。
舞台はパリからニューヨーク、さらにヴェネチアに移して展開される。ここで国をまたぐところ、またジュリアがNY生まれパリ育ちで英仏の言語を起用に操る様子からも、21世紀のより複雑になった私たちの世界を感じた。思っているより壮大で、もっと身近に迫っている。母親の出生に対しアレルギーをもつ息子が印象的だった。自分がいくら能動的で、真実を知ることが怖くないとしても、まわりにいる人々が同じモチベーションでいるとは限らない。また、ジュリアに感情移入していると夫はただの邪魔者だが、夫の立場から考えてみれば、ジャーナリズムという権利と熱が暴走しているだけ、のように見えなくもないだろう。まさに「知って、誰かが幸せになるのか?」という問いそのものだ。途中で描かれるゾーイの不安も、彼女の境遇を考えればいろいろと心配になってくる。幸福とはいかなるものや。
成人したサラが、将来の夫に出会うシーンの彼の言う「一目惚れ」と「影のある笑顔」もいろいろと考えさせられる。圧倒的な美が目の前にあって、でも彼女の心はすこしくすんでいる。それを受け入れながら夫婦になるということ。


ラストシーンにおける"サラ"の後ろ姿が印象的だった。
トリッキーな作品だし、重層性も十分にあるけれど、「歴史の中に個人がいて、点の連なりが人生を作り、歴史をつくる」ということや「生の重みと希望」などが物語を通して貫かれていることもあって見終わった後とても力強い気持ちになれる作品。*

*1:『英国王のスピーチ』

*2:Britney Spearsの"Criminal"というMVではむしろ銃弾がうつくしく描かれている