Bi-Bo-6

Bi-Bo-6

日常のあれこれ

内田樹 - 日本辺境論

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

筆者の主観が多いけれどかねがね同意。ステレオタイプジョークで私たちは笑うことが多いけど、それらを深読みしてみるともっと違うものが見えてくる。


特に中華思想から見た、「east end」としての私たちの文化圏について解説するくだりがユニークというか痛快。
私たちの意識にはもう2000年前くらいから北夷 南蛮 東狄 西戎の、さらに外側にある属国という自意識が根付いていた、とか。
WWⅡでも日本はその華夷秩序を自分の国に置き換えて実現しようとさせただけ、とか。

丸山眞男「まさに変化するその変化の仕方というか、変化のパターン自体に何度も繰り返される音型がある、と言いたいのです。つまり日本思想史はいろいろと変わるけれども、にもかかわらず一貫した云々――というのではなくて、逆にある種の思考・発想のパターンがあるゆえにめまぐるしく変わる、ということです。あるいは、正統的な思想の支配にもかかわらず異端が出てくるのではなく、思想が本格的な「正統」の条件を充たさないからこそ、『異端好み』の傾向が不断に再生産されるというふうにもいえるでしょう。前に出した例でいえばよその世界の変化に対応する変り身の早さ自体が『伝統』化しているのです。」

アメリカ人の国民生活はその建国のときに、「初期設定」されています。ですから、もしアメリカがうまくゆかないことがあったとしたら、それはその初期設定からの逸脱である。だから、アメリカがうまく機能しなくなったら、(誤作動したコンピュータのように)初期設定に戻せばいい。ここが正念場というときには「私たちはそもそも何のためにこの国を作ったのか」という起源の問いに立ち戻ればいい。

もしあるミュージシャンが他のミュージシャンとのコラボレーションの見通しを聞かれて「オリコンチャート2位の音楽家として」コラボレーションしたいと言ったら、その発言はナンセンスであると誰もが笑うでしょう。チャートの順位は毎週変わる。それは一人のミュージシャンが想像する音楽と原理的には関係がない。音楽上の協働作業は「私はどういう音楽をつくりたいのか、あなたはどういう音楽をつくりたいのか」というこれからつくりだす作品への問いかけ抜きには論じられないことがわかっていながら、どうして、外交関係では「私はどういう国をつくりたいのか、あなたはどういう国をつくりたいのか」がまず問われるべきだということがわかっていないのか。〜外交構想はヴィジョンの問題であって、経済チャートとは原理的に無関係です。

そのつどの「絶対的価値体」との近接度によって制約されています。「何が正しいのか」を論理的に判断することよりも、「誰と親しくすればいいのか」を見きわめることにもっぱら知的資源が供給されるということです。自分自身が正しい判断を下すことよりも、「正しい判断を下すはずの人」を探り当て、その「身近」にあることの方を優先するということです。

列島の政治意識は辺境民としての自意識から出発したということです。

つまり、日本列島が華夷秩序内で「蕃地」にカテゴライズされている以上、そのふるまいのすべてには形式的に「無知」というタグがつくということです。何をやっても日本人がやることは無知ゆえに間違っている。これは華夷秩序イデオロギーが導く自明の結論です。そして、日本人の側もそういうふうに自分たちが見られていることを知っていた。

指南力のあるメッセージを発信するというのは、「そんなことを言う人は今のところ私の他に誰もいないけれど、私はそう思う」という態度のことです。自分の発信するメッセージの正しさや有用性を保証する「外部」や「上位審級」は存在しない。そのようなものに「正しさ」を保証してもらわなくても、私はこれが正しいと思うと言いうる、ということです。どうして言いうるかと言えば、その「正しさ」は今ある現実のうちにではなく、これから構築される未来のうちに保証人を求めるからです。私の正しさは未来において、それが現実になることによって実証されるであろう。それが世界標準を作り出す人間の考える「正しさ」です。」

辺境人固有の宗教問題、それはさきほど定式化した通り、霊的なセンターから隔絶しているせいで霊的に未完成であり未成熟であることが証明され、一気に大悟解脱しようと願うことよりも緩やかに成熟の階梯を上ることの方が勧奨されるような土地柄で、今ここで一気に普遍的な宗教的深度に至ることは可能か、という問いです。「ここはロドスではない。でも、ここで跳べる」というロジックは成立しうるかという問いです。

相手が攻撃してくる。その攻撃をどう予測するか、どう避けるか、どう反撃するか。そういう問いの形式で考えることそれ自体が武道的には「先を取られる」と解します。「相手がこう来たら」という初期条件の設定がすでに「後手に回っている」からです。武道的な働きにおいては、入力と出力の間に隙があってはいけない。隙がないというのは、ほんとうは「侵入経路がない」とか「侵入を許すだけの時間がない」ということではなくて、そこに自他の対立関係がない、敵がいないということです。間違って理解している人が多いのですが、武道の目的は「敵に勝つこと」ではありません。「敵を作らないこと」です。

辺境人は「遅れてゲームに参加した」という歴史的なハンディを逆手にとって、「遅れている」という自覚を持つことは「道」を究める上でも、師に仕える上でも、宗教的成熟を果たすためにも、「善いこと」なのであるという独特のローカル・ルールを採用しました。これは辺境人の生存戦略としてはきわめて効果的なソリューションですし、現にそこから十分なベネフィットを私たちは引き出してきました。問題は「その手」が使えない局面があるということです。私たちは辺境人ですから、私たちにとっての問題はつねに「呼ばれたらどう応答するか」という文型でのみ主題化されています。まさに澤庵が書いたとおり、「右衛門」と呼ばれて「あっ」と答えるときにどうすればいいかという設問しかなされない。私たちはつねに「呼びかけられるもの」として世界に出現し、「呼びかけるもの」として「場を主宰する団体」として、私は何をするのかという問いが意識に前景化することは決してありません。すでになされた事実にどう対応するか、それだけが問題であって、自分が事実を創出する側に立って考えるということができない。

書き手の人称代名詞や常体敬体の使い分けで、書かれているコンテンツまで変わってしまうと私は書きましたけれども、それは言い換えると、日本語ではメタ・メッセージの支配力が非常に強いということです。例えば、日本人はコミュニケーションにおいて、メッセージの真偽や当否よりも、相手がそれを信じるかどうか、相手がそれを「丸呑み」するかどうかを優先的に配慮する。もちろん、どんな言語でも、メッセージの発信者と受信者の関係がどういうものか(二人は仲がいいのか悪いのか、それは上位者からの命令なのか、下位者からの懇願なのか、などなど)はコミュニケーションのあり方を決定する重要な条件です。けれども、それにしても、コミュニケーションの最初から最後までそのことばかり考えているという国語は稀有でしょう。

私たちの政治風土で用いられているのは説得の言語ではありません。もっとも広範に用いられているのは、「私はあなたより多くの情報を有しており、あなたよりも合理的に推論することができるのであるから、あなたがどの結論に達しようと、私の結論の方がつねに正しい」という恫喝の語法です。自分の方が立場が上であるということを相手にまず認めさえすれば、メッセージの真偽や当否はもう問われない。

質問と回答は私たちの社会では「正解を導く」ためになされているわけではありません。それはむしろ問う者と答える者のあいだに非対称的な水位差を作り出すためになされています。

日本人の脳は文字を視覚的に入力しながら、感じを図像対応部位で、かなを音声対応部位でそれぞれ処理している。記号入力を二箇所に振り分けて並行処理している。だから失読症の病態が二種類ある。

漢字がその起源においては、私たちの心身に直接的な力能をふるまうものであったという記憶はおそらくいまだ意識の深層にとどめている。漢字というものは持ち重りのする、熱や振動をともなった、具体的な物質性を備えたものとして私たちは引き受けた。そして、現在もなお私たちはそのようなものを日常の言語表現のうちで駆使しています。

原日本語は「音声」でしか存在しなかった。そこに外来の文字が入ってきたとき、それが「真」の、すなわち「正統」の座を領したのです。そして、もともとあった音声言語は「仮」の、すなわち「暫定」の座におかれた。外来のものが正統の地位を占め、土着のものが隷属的な地位に退く。それは同時に男性語と女性語というしかたでジェンダー化されている。これが日本語の辺境語的構造です。土着の言語=仮名=女性語は当然「本音」を表します。生な感情や、剥き出しの生活実感はこのコロキアルな土着語でしか言い表すことができません。たしかに、漢文で記された外来語=真名=男性語は存在します。けれども、それは生活言語ではない。それを以てしては身体実感や情動や官能や喜怒哀楽を適切には表すことができない。

土佐日記』で紀貫之あ「をんな」の真似をして女性語を使ってみたのではありません。「をんな」の真似をして女性語を使って「をとこ」の真似をして日記を書いたのです。二つのフェイクが入っている。生活言語を使わないはずの人間が、あえて生活言語を使って、外来の公用語で書くべき種類のテクストを書く。コロキアルな言語を外来の言語形式の中に流し込む、あるいはコロキアルな言語の上に外来の概念や術語を「載せる」。