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日常のあれこれ

カーニヴァル化する社会 - 鈴木謙介

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

すでにとても有名な本だけど、読んでみて改めて良書だと知りました。
どこを切っても、文字数以上に濃い。
2004年頃の大学生からは、変化してきたのかな、その一端がいわゆる「意識の高い学生」「ビジネスマンもどき」なのかな、という印象です。そう考えると私たちのやる気、エンジンを育ててもらったのはだいたい06年くらいから実感があった好景気だったのかなとも思います。小学生のころは景気が悪くてマックが平日半額だったけど(原風景はデフレ)、17歳のころには景気が回復していてケータイ文明が花ひらいた(恋空)、という上下っぷり。特徴的?
良さと善さ、リバタリアニズムリベラリズムなどはサンデル先生の「これからの正義の話をしよう」のつかみと同じだよね。まさに、この本が多角的視点を持っている証明。

「明確な「動機」、目指すべき「理念」、依拠すべき統一的な「物語」を欠いたまま生きる私たちの生と、未来は、果たして「幸福」なのか否か、ということについて考えるということだ。」
「夢を語る/騙ることが問題なのではなく、こうも容易くたくさんの夢を見ることができる時代に、なぜ私たちは夢から醒めることができないでいる、あるいは醒めようとしないいるのかについて考える」
「(1)「刹那を生きる」型(2)「つながりを失う」型(3)「立ちすくむ」型(4)「自信を失う」型」
「エッセイストの酒井順子が『負け犬の遠吠え』で指摘するとおり、現在二〇代から三〇代の男性が結婚を考える際に、同じ年齢時点で比較して、相手の父親の年収を上回る見込みはほとんどないのが現状なのだ。」
「子どもたちが作業中に事故に遭う危険や、忙しい仕事の合間に、足手まといになりかねない中学生を職場で受け入れることのコストなどを乗り越えて、社会全体の問題として、子どもに「働くとは何か」を伝えようとする試み」「中学生の職場体験は、「働く」ということに対する説得力の弱さを、現場への参加による「実感」でリカバーする実践であると考えられる。」
長山靖生:「仕事と恋愛したい若者たち」:つまり彼らは、たったひとつの運命の出会いを求めて「やりたい仕事」を探しているというのである。」「彼らは単に目の前の厳しい雇用情勢から目を背けるために、非現実的な夢を思い描いているのか、それとも、別の要因によって、非現実的な夢しか見られたなくなっているということなのか」
「伝統的な通過儀礼には(1)それまでの日常生活からの隔離、(2)隔離された空間でのこれまでの生の経験の否定、(3)新たな自己としての生まれ変わりと社会への再参入、というステップが存在」
「予期的社会化(期待的社会化)と呼んでいる。「社会化」とは、人間の人格のあり方を、その時必要な場面に応じて期待される振る舞い方の形式である「役割」の集合として捉えるとき、その「役割」を取得していく過程のことを指している。」「自分の振る舞いがどういう人や集団をよりどころにして決定されるかがポイントになる。よりどころとする対象のことを「準拠集団」と呼ぶが、この準拠集団は、必ずしもその個人が所属している集団である必要はない。非所属集団に対して、それをよりどころにして自身の行動様式を学習、決定していく過程が「予期的社会化」であるわけだ。」
「実際に一生勤め上げられるかどうかではなく、勤め上げられると期待できるかどうかが自明でなくなるとき、「就職」はその先の生涯を生きる原理へと準拠することではなく、現在の自分の生き方にとってどれほど適合的であるか、といった観点から選択されるものにならざるを得ない。にもかかわらず、そうした自分の生き方にとって適合的な就職先など、多くの人にとって存在しない、という現実がそこには存在する。」
社会学者の久木元真吾:フリーターたちが語る「やりたいこと」(1)「やりたいこと」ならやめずに続けられる(2)「やりたいこと」は明確でなくてよい(3)「やりたいこと」は必ず発見できる」
「やりたいこと」を探しているフリーターは「良いフリーター」で、漠然とフリーターを続けるのは「悪いフリーター」であるという区別をもたらすことを指摘し、さらにそのために「良いフリーター」でありさえすれば、フリーターを続けることも肯定される、という帰結を導くと分析される。やりたいことはよくわからないが、とにかくやりたいことに向かっていれば良い、というのは端的に自己展開している論理であり、こうした論理にこだわる限り、「やりたいこと」はいつまでたっても見つからない。「やりたいことがある」から頑張るのではなく、「やりたいことを見つける」ために頑張る以上、本当のところ、それが「本当に」やりたかったことなのかどうかは、本人にさえ決められないのだ。結果的に彼らは、いつも「暫定的にやりたいこと」へ向けて「やりたいこと探し」を続けていくことになる。」
「「わかってるんだ、でも……」という逡巡」

「親世代から見れば現在の若者は、就職に関して自己決定が可能であるという条件が、「自分たちよりも恵まれた状況」だと映っており、そのため、そうした状況を可能な限りサポートすることが「親の務め」であると捉える傾向にある。それを「甘やかし」と呼ぶかどうかは難しいところだが、少なくとも、親世代にとっては他に彼らを支援する手段がないこともまた事実なのである。」
「「私は私のことをこう思う」という一時的な水準の自己紹介ではダメだ、と指導されるからだ。そのため自己分析のプロセスにおいては「私が思う私」と「他人が思う私」というふたつの自己像を使って、さらにそれを自分が応募する企業が求めるような「自己像の記述」へと摺り合わせていくという段階が不可欠になる。こうしたプロセスは就職活動の中でもかなりの苦痛になるらしい。」
社会学者の渋谷望:「リスクを受け入れよ」とする自己責任原則が、一方で「国や企業に頼るな」と言いながら、「あらゆる長期計画(=長期的安定性)を放棄せよ」というダブルバインドなメッセージを発することを指摘した上で、「若者たちはこの分裂したメッセージに対処するために宿命論を招きいれざるをえない」と述べる。」
「ハイ・テンションな自己啓発」(=いつか本当にやりたいことを見つけるんだ!)と「宿命論」(=やりたいことなんて見つからないんだ)の間を右往左往する〜不断の「躁鬱状態」」

「プライバシーを幸福追求権に組み込むべきかどうか」
「「便利になる」ことが、なぜ「必要」なのか、という議論は、さしあたり産業としての監視の文脈からは登場してこない。」
「社会の監視化」「そこで監視「する」主体は誰か。他ならぬ私たち自身である。では監視「される」のは誰か。それも、私たち自身であるとしか言いようがない。」
小倉利丸:ドイツの社会学ウルリッヒ・ベルツ:「監視カメラを必要とする社会は、犯罪のリスクから生じる「不安」に怯える社会であり、その不安はカメラによっては解消不能なのだと主張する。つまり、セキュリティを強化しようとするほどに、その網からこぼれ落ちる「万一の犯罪の可能性」に対する不安が増大し、結果として際限のないセキュリティ化が要請されるということだ。」
「良さ(Goodness)善さ(Justice)」
リバタリアニズム(libertarianism)リベラリズム(liberalism)。アダム・スミスに典型的だと言われているように、リベラリズムは、人々が自由に振る舞いつつも社会の安定が維持されるためには、社会的コミュニケーションのアクターである個人に、前もって道徳的な機制が「コモン・センス」として共有されていなければならないと考える傾向にある。それに対してリバタリアニズムは、市民の間にこうした先験的な道徳を措定することを拒否する。代わってその中心となるのは、あくまでこうした人々の自由と欲望である。リバタリアニズムの思想家デヴィット・フリードマンなどの構想するリバタリアニズムは、道徳や正義に先立って経済的な効率性が存在すると考える。道徳はあくまで個人の好みの問題でしかなく、それは市場の効率性から影響を被っているものだと見なすのが彼らの発想だ。」
「社会的な「善さ」を、その人だけが依拠する「良さ」に過ぎないと見なすような「梯子外し」によって、容易に「ローカルな価値表明」へと落とし込まれてしまうという問題が生じうるのだ。」
「言い換えれば、こうしたデータに対する「照明―反証」合戦は、それ自体がデータの「正しさ」とは無関係な「情報戦」になってしまうということだ。」「社会的事象に対する「データ」による説明は、その内容水準とは別に、「味方の数」を争うポピュリズムを加速させる可能性を、その内に有しているのである。」
「対人関係が、何か事実的を繋がりを持った、体験に根ざしたものとしてではなく、<繋がりうること>へと意味的な転換を生じているということだ。」

  • リニアなモードの個人化

我思う故に我あり(I think, therefore I am.)
客我(me)「知られる私」←主我(I)「知る私」アイデンティティ:反省(reflection)
「自己の統一的な視座を担保」

我は我なり(I am I.):再帰(reflex)
「わたしは、わたし」という無反省な断定のみが、自己を支えている
「個人化された自己は、「対人関係への嗜癖」ではなく「自己への嗜癖」の状態」
嗜癖:単なる日常の行動様式の繰り返しとは異なり、自分自身で制御しがたい強迫行動が、様式化されるような種類の行為

大きな物語、すなわち最終的に目指すべき目標や理念を書いた現代において、監視社会のデータベースとの相互審問の中から、その都度その都度、自己の欲望すべきものが立ち上がってくるというメカニズムだった。」「バウマンに従うならば、後期近代においてもっとも困難であるのは「一貫性を維持する」ということになるだろう。」「アイロニーとは、反省の対象(ベタ)と反省の理念(メタ)との往復運動=嗜癖を自覚的に回避しようとする「ユーモア」に対して、不断の(=永遠の)メタ化を志向するような立場である。」
原理主義的なものの萌芽は、宗教が社会の核心から遠ざかり、個人的な選択の帰結であると見なされるようになった時代に、まさにそうした選択の必要性を説く立場として――つまりは反省的な宗教への言及として――登場したのである。」
「非合理なものを、徹底的に合理的に自己の生活の中に組み込もうとする動きであり、それによって可能になる、「合理化された魔術の社会」なのではないか」
cyber cascade:多くの人々が、ネットを通じて一斉に同じ主張に傾くこと
daily me:自分の好きなものだけを見ることができる情報のパッケージングへの依存
「あなたの幸せはあなた自身が決めなさい」と言われたとき、人はどのようにして幸福の内容を決定するだろうか。反省的な水準における(リニアなモードの)個人化の段階では、おそらくそれは、「いろんな幸せの可能性があるけれど、私はこれを選ぶのだ」といった形で、「自分がなぜそれを幸せとして選択したのか」についての反省的言及を保持することが、よりよい幸福の道だった。そうした反省点的視点を欠いたまま、自分についての幸せを求めようとすると、求めても求めても「幸せ」にたどり着けない、嗜癖的な状態に陥ってしまう。〜再帰的な水準の(ノンリニアなモードの)個人化の段階では、「私自身の幸せ」は、その都度その都度、データベースへの問い合わせによって明らかになるのである。それゆえ、短期的に見れば、カーニヴァル化の世界を生きる個人は、幸福に対する自己決定を迫られる個人よりも、相対的に「幸福」である可能性がある。」→ただ、これは一時的な盛り上がりであると同時に、正確である保証はない。
「こうした事態が生じる原因は、私たちの幸福を決定する振る舞いの前提となる「予期」の構造が、反省的なコミュニケーションから、データベースとの自閉的な往復運動によって形成されるものになったという点から生じているとも考えられる。「私が何を幸福だと思うか」は、私のよって立つ予期構造が、どのようなものであるかによって左右されるわけだが、データベースとの往復的に「私の幸福」を算定すればよいという予期構造の下では、実のところ、「私」はデータベースからの確率的診断以上の幸福を予期することが不可能なのである」