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日常のあれこれ

幸福を見つめるコピー - 岩崎俊一

幸福を見つめるコピー

幸福を見つめるコピー

SALUSの「大人の迷子たち」というコラムが好きだったので、気になって購入してみました。
コラムの文体も好きだったし、
その上私が大好きなコピーライターの方であると知ってテンション上がります。

人は弱い生きものである


 幸福になること。
 人は、まちがいなく、その北極星をめざしている。
 そのためにこそ、さまざまな表現物はこの世に生まれ、人に出会い、出会った人の心に寄りそい、背中を抱きしめ、そして人の前に火を灯して、歩むべき道を照らす。
 コピーも例外ではない、といばるつもりはないが、少なくともここをめざして書かなければいけないと、ずっと思ってきた。
 それは、企業は何のために存在するのか、商品は何のために生まれてくるのかを考えれば、自明である。
 すなわち、人の役に立つためである。人を助け、人を育て、人を守り、人を愉快にし、人によろこびを提供するためだ。すべての広告は、ここを「基地」とし、発信される表現物だ。それが、「幸福」という北極星をめざさないわけはないのである。

年賀状は、贈り物だと思う。

(年賀状キャンペーン 日本郵便 2007年)

1月1日のあなたの、心の中にいたい。

(「年賀状は25日までに」 日本郵便 2008年)

 まったく人間とは勝手なもので、自分は出していないのに、元旦の朝、妙にそわそわして郵便屋さんが来るのを待っている。来たら、早速一枚一枚ていねいに見ながら、あ、あの人から来ている、この人かなつかしいなどと、ちょっとドキドキしながら読んでいたりする。
 双方とも歓迎していないのならともかく、少なくとももらうほうはかなりよろこんでいる。これはなんとかなるんじゃないか。

会う、贅沢。

人に会う。時間を作って、会う。
おしゃれをしたり、ご馳走を用意したり。
一日がかりで故郷に帰って、会う。
ひとりの人に会うために、
その人の笑顔を見るために、
ホントに私たち、
いっぱい努力しているんですね。
会うて、ぜい沢。人と人の間の、
いちばんのぜい沢。「会いたいなあ」。
この気持ち、この情熱があれば、
贈り物は素敵にならないはずはない。
そんな気がする、人なつかしい夏です。
(お中元 西武百貨店 1982年)

もらったものは、買ったものより、ちょっとおいしい。

(お中元 西武百貨店 2000年)

うまいことを言う人より、うまいものをくれる人を、信じなさい。

(お中元 西武百貨店 2002年)

あなたに会えたお礼です。

人が、一生のあいだに
会える人の数は
ほんとうにわずかだと思います。
そんな、ひと握りの人の中に、
あなたが入っていたなんて。
この幸運を、ぼくは、
誰に感謝すればいいのでしょう。
あなたに会えたお礼です。
サントリーの贈り物。
(お歳暮 サントリー 1985年)

さしあげたのは、時間です。

(お歳暮 サントリー 1986年)

牛乳を飲む子を叱るお母さんを、見たことがない。

(農協牛乳 全農 1995年)

雨の日の記憶は濃い。

(イズ・ステージ 積水ハウス 1988年)

外が寒い、という幸せ。

(イズ・ステージ 積水ハウス 1994年)

家が、広くてさみしいと、生まれてはじめて思った。

(夫婦で人生を楽しむ平屋の住まい 積水ハウス 2007年)

旅に出る服は、写真に残る服だ。

(秋のテーマ 西武百貨店 2001年)

少女は無口になった。夏の終わりだった。

(秋テーマ パルコ 1983年)

人は貧しいという理由で死んではいけない。

日本フォスタープラン協会 1999年)

子どもが苦しんでいる。どこの国の大人が助けてもいいじゃないか。

日本フォスタープラン協会 2003年)

生まれたばかりのいのちが、いちばん死に近い場所にいました。

日本フォスタープラン協会 2001年)


血を流すわけでもないのに、援助することをそんなに賛美するのはおかしい。
 ならば読み手が納得し、行動を起こさせるにはどうすればいいのか。
 自分に聞いてみる。お前ならどう言われれば動くか。
 考えたが、妙案はない。さまざまな言いぶんや言いかたをさがすのだが、どうしても偽善のいやなにおいが消えない。
 その時ふと思った。
 こんな風にグズグズ悩んでいるひまはあるのか。ないだろう。
 相手は、いま死ぬか生きるかの瀬戸際にいるのだ。もし自分の目の前に死にかかっている人がいたら、自分は躊躇するのか。するわけがない。目の前にはいないけれど、フォスタープランが助けようとしているのは、まさにそういう人たちだ。

今年の服を着ていても 顔が去年のままですよ。

(スタイリッシュライフカレッジ 西武百貨店 2003年)

 僕がここで言う、四十代以上の女性の初々しさは少し違う。
 ひと言で言えば、おそれを知る人、ということだろうか。世の中をなめていない人。高をくくらない人。独善と偏見に汚れていない人。逆に言えば、いつも、もしかしたら自分はまちがっているかもしれないという「おびえ」を持てる人。
 何十年も生きてきたにもかかわらず、そういうピュアな態度を自然に取れるというのは、なかなかできることではない。そのためには、ほんとうの心のしなやかさが必要であり、自分を戒める強さが必要だと思う。

 日頃どんなに豪胆にふるまう人や、あるいはどんな地位や肩書きにある人でさえ、ことからだに関する問題点を専門家に指摘されれば、たちまちクシュン、である。ヘナヘナである。僕に至っては、白衣を見るだけでどうやらびびっているらしい。かわいいと言えば、じつに他愛もなくかわいいものである。
 健康やいのちに関する仕事を依頼されて考えていると、自分も含めて、あらためて人間の弱さ、心細さに行きあたり、ちょっといとおしくなるのである。

「言葉は心の使い」と言います。
言葉はその人の心を表現する使者の様なものだ、
という意味ですが、さらに言えば、その人の性格も、品位も、
価値も、その人が使う言葉の中にひそんでいる、と言える。
どんなに取りつくろっても、
話す言葉にその人の素顔が出てしまう、

手ほど繊細なものはありません。手ほど有能で、わがままで、
感受性の豊かなものはありません。

 いま、人は、それぞれの楽しみに忙しい。ちょっと手をのばせば、むかし僕たちが、特別な時に、特別な場所でしか手に入れられなかったエンターテイメントを、いともカンタンに堪能することができる。それは、まちがいなく誰もが望んだことであり、それをいま誰も手放すつもりもないであろう。
 だが、しかし、これは完全にバーターである。

暮らしの哲学

暮らしの哲学

「高校一年の春、安岡章太郎の『春は残酷な季節である』という文章を読み、わからないままずっと覚えていた。」
「若い時、この『始まりの痛み』なんてものは誰も理解しない。でもその痛みを知ることが、人生を知ることなのだ。この痛みを味わうということは、あんがいおいしいものなのだ。だから、生きてみるということには、それなりの意味があるものなのだ。」

負けても楽しそうな人には、ずっと勝てない。

自分の欠点を 人と一緒に笑えるのは、その人の長所です。

(セゾン生命保険 1994年)

 うなづけるからには、そのコピーは、コピーライターひとりの思いではなく、うなづいた多くの人の思いでもあった。つまり、コピーライターがでっちあげたものではなく、ひとつの「ほんとうのこと」として、さながら数学でいう「定理」のように、すでにこの世に存在していたもの、といえないだろうか。「コピーは、つくるものではなく、見つけるものだ」と思うのは、まさにそこなのである。
 この空中のそここに、人知れずひっそりと浮遊している「ほんとうのことたち」を、ひょいとつかまえ、誰の心にも入りやすいカタチにして人々の前に呈示する。それが、僕の考えるコピーライターの仕事である。

とても恐縮なんですが、この考え方がすごく好き。共感しました。
http://twitter.com/#!/aimerci/status/27712138915
似てるなんて言い方はおこがましいですが、こういう風な視点で物事を切り取れるように、自分もなりたい。別にコピーライターになるってわけじゃないけど、何か言葉を使って誰かに伝える時の信条として。