Bi-Bo-6

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日常のあれこれ

多文化世界 - 青木保

多文化世界 (岩波新書)

多文化世界 (岩波新書)

「神」が政治の言語となって

「オサマ・ビンラディンサダム・フセイン「神」への言及の背後には、イスラム文明の伝統が存在します。ブッシュ大統領の「神」の背-にはキリスト教が存在するのと同じです。」


「繰り返しますが、近代的国民国家は、国内に自立した民族共同体の存在を認めない、つまり、国民国家の法の平等の下で、個人が国民として国家に所属するというのが国家の存立の前提であり、条件でありますから、あくまでも民族ではなく個人に充填が置かれています。けれども、国内に異民族の集団があった場合に、この法の下の平等が実際にはまっとうされず、多数民と少数民の間で差別が出てきてしまうことも多く見うけられます。「国民」という概念はあっても、その「国民」を構成する少数民・多数民の存在が対立するという形で浮上したときに、その国民国家の枠内でうまく処理できないことが数多く出てきているのです。」

スターリン/『「スターリン言語学」精読』田中克彦

「民族とは、人種的、種族的な共同体ではなく、歴史的共同体である」「民族的共同体と国家共同体の違いは、前者が共通の言語なしに考えられないのに対して、後者は必ずしも共通の言語は必要としない」「国内に複数の言語が存在することはその統一を妨げるものではない」

(故サー・アイザイア・バーリンについて)

バーリンの古今にわたる博覧強記は、もっぱらベッドに横たわって好みのキャンディやクッキーを食べ散らかしながら得られたということで、私個人の趣味とは少し違うのですが、こんなところにもひそかにバーリンを敬愛する理由はあるのです。彼の講演は知的興奮に満ちて人々を魅了したそうですが、一方で早口でまくしたてる内容は言葉より先に口から溢れてくるようだったと言われています。」


「人々の間の関係が何であったか、現在はどうか、それはどのようなものになり得るか、またどのようなものであるべきかについての観念から始まったということを知っておくべきであろう。」
バーリンプラトン的な観念:「真実は一つである」
マキャベリ→「ローマ的な美徳とキリスト教的な美徳は決して両立しない価値である、その二つを結びつけることは不可能である」
ヴィーゴ→「バーリンによるとヴィーゴは、「すべての社会は現実にたいするそれぞれの見方、その社会が生きている世界についての見方、その社会自身についての見方、そして自らの過去にたいする関係、自然との関係、自らの追求しているものにたいする関係についての見方を持っていた」。そうした見方というのは社会観を指していますが、「このような社会観は、その成員がすること、考えること、感じることのすべてによって伝えられる」。」


多元主義:「人の求める目的は数多く、かつ多様であるが、人々はそれぞれ充分に合理的でかつ人間的であり、お互いに理解し共感し学び合うことができるという考え方である」。どんなに文化が違い、社会が異なっても、人間は互いに基本的な理解可能性の中に生きている。
(アメリカの文化が他の地域にたくさん流入していることについて。)「「文化帝国主義」と批判することは簡単ですが、それと同じような魅力あるものを他の国や社会が生み出しているかどうかが、問題となるでしょう。」
イラク戦争開戦時においても、中東でアメリカの文化(ハリウッド映画など)は魅力的に受け入れられていたという事実はある。≒ソフトパワー
「ソフト・パワー論のすぐれている点は、単に対外的にいいイメージをふりまくというだけではなく、あくまでも国内のあり方との連結のうえでそのパワーが発揮されると指摘しているところです。」

  • 日本は訪れたいところか
  • 「歩ける都市」の文化力:たとえばパリ
  • 歴史の記憶を刻む:上海の旧租界、建築物

ブランド国家論

「ブランドとは、一口に言えば、顧客や消費者がある製品に対して抱く想念である。ブランド国家とは、ある国家に対して外部の世界が抱く理念である。」
アメリカとアメリカ製品:自由と反映を代表する
エルメスのスカーフとボジョレー・ヌーボー:フランスの生きる楽しみ
BMWメルセデス:自動車のドイツの効率性と信頼性


インド:多様性の中の統一
アジアにある大学同士比較があまりにもなされない


グローバル化と情報化の時代は、従来はお互いに知らずに済んだ人たちを近づけ、否応なくその「文化」の違いまで感得させてしまうからです。「文化」の違いをめぐる悲喜劇はこうして日常の出来事となりました。」