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日常のあれこれ

シュルレアリスムとは何か - 巌谷国士

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

p21 ×シュール
シュルレアリスムはレアリスムを超えるという態度とはちがうもので、むしろ「シュルレエル」の「イスム」であり、「シュルレエル」にいたろうとする運動であるということ。じゃあ「シュルレエル」とは何なのかといういえば、これは一応「超現実」という言葉に訳してもいいんですけれども、とにかく現実というものが世の中にあるとして、それとはまったくちがう別の世界のことを「超現実」と呼んでいるわけではありません。そうじゃないんです。むしろ現実のなかにあるもの。「超現実」はまさに現実に内在しているということですね。」
「もともとは謎をはらむ、つかみどころのない時間空間のなかに、現実と称するものを惰性的に見つけ、それでなんとか「現実生活」をやりくりしているのが現代人でしょう。ところがそれは主観的な約束事であって、客観的な、オブジェクティブな、つまりオブジェの現実ではない。そんな日常の約束事とつきあっているうちに、なにかフワッと、見たことのない、未知の驚きをよびおこす現実があらわれたというようなときに、それを超現実と呼ぶべきではないのか。」
書くことはある部分において自動的。
p45
ランボーの有名な「見者の手紙」のひとつにこういうことが書かれていますね。「Je pense」(私は考えている)というのはまちがいだと。つまり、デカルトの「コギト(我思う)」はウソで、本当は「On me pense」なのだという。私が考えているのではなくて、「だれかが私を考えている」あるいは「だれかが私に考えている」「だれかが私において考えている」なのだと。」
p55
シュルレアリスムにのめりこむ精神は、自分の幼年時代の最良の部分を、昇揚とともにふたたび生きる。」『シュルレアリスム宣言』71ページ
幼年時代の思い出からは、どこか買い占められていない感じ、したがって道をはずれているという感じがあふれてくる」
p78
「オブジェクティフ」といえば「客観的」という意味ですが、ここで客観性が問題になるのは、つまり、自分の目の前で、図版の部分同士が自発的に結びつく現象に立ちあったということです。既成の図版のXとYを自分が主観的に結びつけたというのではなく、それらがおたがいに結びついてくる状況を自分が観客のように見た、とエルンストはいっているんです。観客のように客観的に見ながら、創造に参加する結果になったということです。」
p84
「デペイズマン dépaysement」転置/マグリットの絵など
p112
「「子ども」というものがなぜ登場したのかを逆に考えてみると、たぶん学校ができたからなんですね。」
近世までは大人の小さい版と考えられていた。
普通の庶民の子どもは物心がつくとすぐに丁稚奉公へ行って大人と同じことを身につける。
=小さめの大人。
フィリップ・アリエス「<子ども>の誕生」
十代前半までの特別な人間の種類、という概念はずっとなかった。
だからこそ特異な才能が伸びた。
おとぎばなしも子供向けではない⇔童話は作為的に子供向け
p126
人間の心理の細部が反映しないように語られているのがおとぎばなし。
p140
「森」と「旅」はおとぎばなしの鍵になる。
森で生活していた人類は、農耕によって定住をするようになった。
woodとforest
フェアリーテイル 妖精的な
p155
おとぎばなしは運命の物語。
すべて運命に支配されているから主人公の自我とか主観とか心理とかなんの力ももたない。
運命そのものが物語の動因。
p184
ユートピアとは。
規則的 反復性 機械式時計のよう
個性がなくなる 幾何学
アジア 自然 装飾 女性的
ヨーロッパ(ギリシア)管理社会 合理性 男性的
匂いを嫌う
蛍光灯と白熱灯 プラハの影
すべてを照らすことと闇の存在
パリの市民は街灯を壊して歩いた