- 作者: 高橋英夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2001/03/19
- メディア: 新書
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「そもそも人生が友情だけで成立するものではないため、単純な友情小説は人生の厚みと深みがとらえきれず、限定的になりやすい。」
「友情は何ものかに変化してゆく起点としての意味をもっていた。」
「そもそも人生が友情だけで成立するものではないため、単純な友情小説は人生の厚みと深みがとらえきれず、限定的になりやすい。」
「友情は何ものかに変化してゆく起点としての意味をもっていた。」
「本が記憶のメディアだとすれば、残酷な結論だ。記憶に残るのは良い本ではない。売れた本である。個展がベストセラーになるのではない。ベストセラーのなかからしか古典は生まれてこないのだ。」
「機会の平等原理を掲げる社会には、他人を否定する強い力がひそんでいる。そして、その力があたかもないかのようにふるまうことで、その力で否定された人々をさらに否定しようとする。」
「これほどまでの軋轢と齟齬をうみだしながら、機会の平等社会への途を誰も捨てられない。機会の平等原理は、私が私であることの、いや私が私になることの奪われなさにつながっている。私たちのなかには、個であることの快楽と欲望があるのだ。」
「人の心とは、時代によってこうも変わり、こうも変わらないものだということに感心していた。」
「書き残された古い言葉の中にのみ、ときおりほんとうらしい言葉と人間のしぐさと吐息と目の輝きがある、生きている人の気配がなまなましくある、と思うようになったのだ。」
「言葉は、人生を歩くための杖である。というより、こころの杖である、といった方がよかろう。若いときは、高く跳ぶための杖だが、老いれば、転ばぬための杖である。」
「あまりにも本当のことは、それを素直に言うと、かえって真実らしくなくなったり、逆に滑稽になったりする。笑いつつ、軽く一突きするのがよいのである。」
プルタルコス『饒舌について』(柳沼重剛訳)より。
「言葉固有の目的は、聞く人に信頼の念を起こさせることにある。」
「すなわち、酒は本来楽しんで愉快になるために発見されたものだのに、人にむりやり何杯も、それも生のまま飲ませる連中がいて、こうなると酒は不愉快な泥酔のためのものになってしまう。まさにそれと同じように、言葉は本来大変楽しく、かつ最もよく人間味を伝えるものだのに、それを悪用し、また無造作に使う者がいて、そうなると言葉は人情に反し、かつ人を孤立させるものになってしまう。」
そんなふうに、ときおりギリシア・ローマの古典の文庫を開くのは、よい経験になると思う。
「まず、ある本の中央を開いて二ページを読む。次に、中央と最初の真ん中を開いて二ページを読む。次に、中央と終わりとの真ん中を開いて二ページを読む。さらに同じ手つきで、任意の二ヶ所を開く。それで自分の心に出会うものがなかったら、その本は捨てる、と。
ただし、一冊のうち、二行でも心に出会うものがあったら、それで良し、としてもらいたい。」
「我が国においては個人は長い間西欧的な個人である前に自分が属する人間関係である「世間」の一員であった。」
「身体が夢みるということについては、わたしは以前に、刺青や化粧などの身体装飾について、それを皮膚がじぶん自身に接触する場所で生まれる「魂」が描き出す「抽象絵画」として、つまり皮膚のみる夢として解釈することを試みたことがある」
「そういう強迫観念の典型がおそらくは<わたし>という観念なのではないかと思う。つまり、じぶんの身体のすみずみまでじぶんのもの、じぶんの所有物でなければならないという観念、その意味で<わたし>によって遺漏なく監視される身体という観念である。ここでわたしたちは、カプセルのように密封された身体、身体が単体であるという観念から一度離れる必要があるのではないか。」
「わたしにとって身体とは、ときにわたしのもの、あるいはわたし自身であり、ときにほとんど無人称のものである。」
「テレビのクイズ番組で「100人に聞きました」というのがあった。この番組は、回答の基準を「真・偽」から「妥当性」(もっともらしさ)へと変えた点で、まったくエポックメーキングだった。」
「この鏡は、他のすべての人々を映し出すが、自分自身だけは映さないとくべつな鏡だった。このメカニズムは、対人関係そのものだ。人間は他人の顔は見えても自分の顔を見ることができない。顔にスミがついていたら、それを笑って教えてくれるのは、他人の反応だけである。「一般大衆」という言葉は、大衆が大衆を認識するメカニズムを、目に見えるかたちで大衆自身に示して見せた。その自己言及性に、大衆は、自分自身に回帰する笑いを、無抵抗に笑うしかなかったのである。」
「第三に、時代によって底上げされた欲望を自由に追求しない自由を確保しておくことである。時代の強迫観念から自由であること、その快楽は私の欲望ではないと自分じしんにたいして自由にいいうること。欲望の自然を否定する自己欺瞞に陥るのではなく、欲望の事由から「わたし」の欲望を明晰に峻別するのである。」
世間と戦って生きる、などということは実は恵まれた偶然のことであって、恐るべき自然に囲まれて肩を寄せ合って恐れながら生きるのが人間の基本なのだ、
自然は人間など微塵も必要としていないのだ、ということが痛切にわかる。それはただ存在するのだ。意味も目的もなく、見られることも理解されることも賞賛されることも愛されることさえも、必要とすることなく。
「昭和初期の知識社会は、主として学会に生きる専門研究者と、主としてジャーナリズムに拠るインテリのあいだで、しだいに目に見えるかたちで分裂を深めて行った。」
「"The proof of the pudding is in the eating."すなわち、プディングであることの証明はそれを食べてみることである。だが、分業によって作る人と食べる人とが分離してしまっている資本主義社会においては、プディングは普通お金で買わなければ食べられない。(河津に食べてしまったら、それは食い逃げか万引きである。)プディングがプディングであることの証明、いや、プディングがおいしいプディングであることの証明は、お金と交換にしか得られない。」
「資本主義社会においては、人は消費者として商品そのものを比較することはできない。人は広告という媒介を通じてはじめて商品を比較することができるのである。」
「広告と広告のあいだの差異――それは、広告が本来媒介すべき商品と商品とのあいだの差異に還元しえない。いわば「過剰な」差異である。」
「言語についてソシュールは、「すべては対立として用いられた差異にすぎず、対立が価値を生み出す」と述べているが、それはそのまま広告についてもあてはまる。」
「子どもというものが近代において発見された現象であることはよく知られているが、論理的に言って子どもの発見はおとなの発見と同時であろう。子どもはおとなの発見と同時に、おとなではないもの、いわばおとなのネガとして発見されたのである。発見者は自分をおとなだと思った人間である。子ども自身が、おれはおとなとは違う子どもだと言い出したわけではない。」
「複雑なものの方が単純なものより高級という階級意識がひとの中にある。」
「二十一世紀のキーワードとして「共生」というとき、そこに本当に「共死」の覚悟まで含まれているかどうかを自問する必要があると思う。」
「便利さこそ、旅の最も手強い敵、と言えるのではなかろうか。」